「恩賜の杖」・・戦場で目玉や視力を失っても、
お国がくれるのはこの杖一本だけ。
“お国のために”
障害者も駆り出された!!
―盲目でも聾唖でも片脚片腕でも戦争協力―
[差別は明治の「徴兵制」以降から]
障害者差別がハッキリ目に見える形で露骨になるのは、1873年に「徴兵制」が敷かれるようになった明治からである。いわゆる“五体満足”の健常者が、「ハイ、天皇陛下とお国のために、アベチンゾウ一身を投げうって戦って参ります」と、町や村の人々に祝福?されて戦場に駆り出されて死んでいったのだが、さてそうなると“五体不満足”な者に対する社会の空気は明確に変化する。
明治憲法は「兵役の義務」と「納税の義務」を国民に課し、その義務を果たす者のみを市民と認めた。だから兵士になれない障害者は税金を納めても、「穀潰し(無駄飯食い)」「役立たず」「厄介者」扱いになるのだ。戦場に行って鉄砲ひとつ撃てないような者は、戦争で領土を拡張する帝国主義国家にとって「無用・不要」の人間となる。
江戸時代は「当道座」という盲人のための組織があり、鍼灸・按摩などの技術を教え職業を管理していたから、生活に困ることはなかったのだが、明治政府は1871(明治4)年に規制緩和?して「当道座廃止」の太政官布告を出し、誰でも鍼灸・按摩ができるようになったから競争が激化し、盲人の生活は途端に苦しくなった。会社も商店も雇ってくれないから、娼婦になるか瞽女のような「三味線の門付け」になるか、明治政府は金(予算)がなかった為もあるが、実に冷酷な「自己責任」の政治である。1911(明治44)年には盲人たちが「生活が苦しいので、なんとか按摩だけでも規制して盲人専業にして欲しい」と、意見書を提出したほどだ。
第一次大戦(1914年)以降、戦争は全国民が“戦士・兵士”となる「総力戦」となったから、盲目であろうと聾唖だろうと片手片脚だろうと、戦争に協力しなくてはならない。大正時代、盲人用の新聞『点字毎日』に投稿された標語には、勇ましい、というより“痛ましい”作品が並ぶ。
●心眼で日の丸仰ぎ総進発 ●見えぬ目で見えない敵を打ち破れ ●決戦だ心のまなこは鉄壁だ
日本は明治後半から毎年戦争状態。大きなものでも、1894日清戦争開始、1904日露戦争開始、1910韓国併合、1914第一次大戦開始、1918シベリア出兵開始、1923関東大震災と朝鮮人・中国人虐殺(これは国内だが)、1928済南事件(中国国民党革命軍と戦闘)と関東軍による張作霖暗殺、1931満州事変(戦争)始まる、1933国連脱退、1937日中戦争開始・・・そして遂に1941アジア太平洋戦争開始。
運悪く明治半ばに生まれた人は、物心ついてからの一生を、ほぼ戦争の記憶と共に生きたことになる。明治(後半)・大正・昭和(前半)の半世紀50年間は戦争中毒の時代だった。フツーの人にとっても地獄の時代だったが、障害者にとってはさらに惨い“生きづらい”時代だったろう。
[障害者も何もかも戦争に!]
1939(昭和14年)東京文京区の盲学校生徒が、歩兵第三連隊を見学した時の感想文には「自分もせめて一発でも撃ってみたい、勇壮な銃声にこの胸は高まった!」「ああ、自分も晴眼者(眼が見える人)ならば!」・・なんとも切ない。目が見えず鉄砲を撃てないことを、こんなに口惜しがるとは。
もちろん周囲の厳しい“空気”を感じるのは障害者本人だけではない。障害者の息子に「お前は眼が見えんのやから、特攻の飛行機に乗せてもろて体当りして死んで来い」と言い出す親まで現れる・・戦争というものがいかに人の心を狂わすことか。何とか“お国の役に立ちたい”一心で、先の戦争中盲人団体は大会を開き「我々の飛行機を飛ばそう、起てよ日本の盲界!」と檄を飛ばし、マッサージや鍼灸で稼いだお金をカンパ(募金)してもらい3360万円(今の金額に換算)集めた。そして1942年、海軍に「愛盲報国機」(特攻用のゼロ戦)を献納した。
が、国は「盲人学校を義務化する要求」も受け入れず、福祉政策は一切手当しなかった。敗戦濃厚になった戦争末期、アメリカの爆撃機による都市への無差別虐殺の空襲がひどくなり、学童疎開が始まったのだが、その時も盲学校などは後回し。もっとも昭和の時代になっても、盲者で学校に通えたものはわずか一割未満。大人のほうも空襲でどれくらい被害が出たか記録さえ無い。眼が見えないと、空襲の恐怖は健常者の比ではないのだが。
すべては1938年の『国家総動員法』による。五体満足は“赤紙”で兵士になり、五体不満足は軍属となり、馬はもちろん犬も軍属となって戦場に駆り出され、使えない駄犬や猫は殺されて毛皮になって、“お国に奉仕”することになったのだ。荒木貞夫文部大臣は「盲人や聾唖者のみが持つ特殊感覚機能を活用せしめて、高度国防に寄与しうる人間をつくる努力をせねばならぬ」と、盲人・聾唖学校の校長にハッパをかけた。
軍は「眼が見えない者は逆に聴覚が研ぎ澄まされる」というので、盲人を「防空監視員」に利用する。
そして新聞(当時のマスコミ)も「盲人さえもこうして“国に奉仕”している。健常な者はもっともっと戦争協力すべきである」と、軍の尻馬に乗る。軍はアメリカのカーチス・バッファロー・B29など4機種の飛来音を、レコード(帝国蓄音器の『敵機爆音集』)で聞かせて記憶させた。エンジン音が軽いのは偵察機、思いのは爆撃機。主に夜間に方向と音の大きさで数や機種を判断するのだ。
が、まあフツーの人よりは的中率高いが、期待したほどではない。そこで「盲人の音楽科学生なら、もっとよく聞き分けられるだろう」と引張ってきたのだが、「私達が聞き分けるのは音楽的な純音であって雑音は無理です」・・まあ軍人(戦争オタク)の教養や智恵なんて、おおかたこの程度と思っていた方が良い?
いつの時代でも、盲学校で教える主要な技量は「鍼灸やマッサージ」である。だから盲目でも「お国の役に立ちたい」と「治療奉仕隊」を結成、志願して空母に乗りパイロットのマッサージをした者もいる。軍属として南方まで行き、輸送船で運ばれる途中魚雷にやられ死んだ者も。また耳が聞こえない者は、工場で武器や飛行機づくりに従事し「産業戦士」となった。何もしないでいたら「障害に甘えている」「タダ飯食らいの非国民」と言われるからだ。何しろすべて学校の入口に、「祈武運長久」「堅忍持久」の大きな垂れ幕が下がっている狂った時代なのだ。
戦争が長引き兵器の発達により死傷者が増加すると兵力が不足する。で、「徴兵検査」の合格ラインを大幅に下げ、知的障害者も戦場に引張り出すことにしたのだ。我々世代にはお馴染みの世田谷区の東京府立「松沢病院」の患者は、1940年すでに死亡率40%を越えている。戦場で死んだのではなく、なんとこれが病院で栄養失調になって死んだというのだ。ハア?だが、軍が「キ✕✕イに飯を食わすなどもってのほか」と、配給をストップしたため栄養失調になったのだ。軍人というのは人間の皮を被った鬼畜としか言いようがない。何が「戦いは創造の父文化の母」(陸軍『国防の本義』)だ。障害者をわざと餓死させるのが「文化の母」か! アメリカはアメリカで軍人どもはきっと、原爆で大量虐殺するのは「創造の父」とでも言うのだろう。
とにかく昭和になっても戦争ばかりしているから、戦死者もン十万だが、傷病兵の数もウナギ昇り。五体満足の者が「手と足を捥いで丸太にして帰す」「万歳と言った手を大陸に置いてくる」(反戦川柳の鶴彬)となって、戦地から“片端”(昔はこういう差別語を使った)=障害者となり帰国する者が激増。政府や軍は対策を迫られる。当初こそ「名誉の負傷」などと傷痍軍人をおだてあげ、1938年に「傷兵保護院」を設置し車椅子や義足を無料支給した。が、失明兵士に国が与えた物といえば、何と点字懐中時計と白い杖のみ。その盲人用の白い杖は「恩賜の杖」(天皇が下さった杖)と恩着せがましいネーミングで、軍大臣の名と鷲(海軍は錨)が刻まれていた。失明の代償が杖一本だったのだ。
当時厚生省は、男は根こそぎ戦地へ送り込んで労働力不足に陥ったため、子供や女性や障害者を「潜在勤労力」と名付けて利用しようと図った。女性は農村では農作業をし、都市では防火防空・軍のプロパガンダ街頭活動(国防婦人会)に従事させられ、子供は勉強は教えてもらえず、「勤労動員」で毎日工場で労働するか、空襲による延焼を防ぐため家を壊す「建物疎開」に駆りだされた。もちろん無報酬。死んでも一銭の見舞金無し。「勤労動員」は法律により15歳未満は禁止なのに、11歳の聾唖の子供が軍事工場でヤスリがけをやらされたり、浜松(ここはヤマハ発動機の本拠地)では13歳と14歳の少年が空襲で爆死してる。
聾唖者も傷痍軍人を防空壕に連れていったりして必死に“お国のため”に尽くしたが、市井の人々の目は冷たかった。戦地で失明した者に対しては「有り難い」「申訳ない」と敬うのに、生まれつきの盲人に対しては「役立たず」とバカにしたのだ。障害者差別は軍の“専売特許”ではない。市民大衆の意識・無意識に深く根ざしている・・だからこそ問題は複雑なのだ。歴史学者ですら「障害者と戦争」のテーマに興味を持ったのが、たかだか1980年代になってからのことなのだ。もちろんマスコミも今のようには取上げることがなかった。また障害者自身も「戦争に協力した」という後ろめたさから、大きな声を上げることができなかったのだ。
最後に、戦争が「“文化の母”“創造の父”」となった唯一にして最良の例外・・そう我らが世界に誇りうるたったひとつの“絶対価値”「不磨の大典=日本国憲法」の第11条を挙げておこう。
■国民はすべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、犯すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民すべてに与えられる■
---了---転載元: キープ・レフト