◇被爆者から見た3.11「7.6城臺美弥子さんと語らう夕べin北九州」◇お知らせ
◇◇◇お知らせ◇◇◇
被爆者から見た3.11
7.6城臺美弥子さんと語らう夕べin北九州
〈福島と長崎、世界を結ぶ命の架け橋を〉
7月6日(土曜)午後6時から
北九州市立商工貿易会館 501会議室
(北九州市小倉北区古船場町1番35号)
資料代 500円
主催 城臺美弥子さんと語らう夕べ実行委員会
被爆者から見た3.11
7.6城臺美弥子さんと語らう夕べin北九州
〈福島と長崎、世界を結ぶ命の架け橋を〉
7月6日(土曜)午後6時から
北九州市立商工貿易会館 501会議室
(北九州市小倉北区古船場町1番35号)
資料代 500円
主催 城臺美弥子さんと語らう夕べ実行委員会
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寄稿◇見えない核の恐怖と戦う福島の子どもたちを迎えたい
NAZENナガサキ 城臺美弥子
一昨年3月11日以降、私はそれを映し出すテレビ放送の画面に声も出ないような衝撃を受けていた。地震と津波災害に続いて起こった東京電力福島原発の水素爆発、そしてメルトダウン、核の恐ろしさを知り尽くし、決して再び放射能汚染などあってはならないと、「長崎を最後の被爆地に」と叫び続けていたのに、こともあろうに、この日本で3度目の原爆投下を許してしまった。刻々と報じられる放射能汚染による、避難情報に、67年前、私は避難列車に乗り込んだことがよみがえってきた。同行した女の子は生後8ヶ月、叔母はその赤子を体の前に結わえ付け、5歳の男の子の手を引き、私は祖母にしっかりと手をひかれ、満員列車の窓から押し込まれて、福岡、大分へ避難したこと。避難先では何度か断られ、馬小屋の二階で寝たことなど辛い思い出は忘れられない。しかし私の家族のその後の健康状態を見てみると、酷い原爆後遺症のようなものは無かった。
今考えると一ヶ月ばかり長崎を離れていたのだ。このことは、食料がなく、住むところが破壊されていたので、長崎を出たに過ぎなかったが、偶然ではあったが、医学的には最もよい方法をとっていたことが、福島原発をきっかけに、解明されたと思っている。つまり、「被曝により、傷つけられた遺伝子は、一定期間の保養において、修復ができる」ということを聴いた。逆に、そのとき、救援のために長崎へ入った人たち〔入市被爆〕は、二次被爆により、内部被爆していったのだ。今福島で起こっていることは、この入市被爆と同じようなことだと思う。68年前と違って、今は、見えない放射線も測定できる。福島の人たちは、毎日放出されている放射能物質のある町に、たとえ、除染したといっても、被曝し続けることになる。低線量内部被曝のことを知れば知るほど、月々子どもたちが被曝し続けるのだから、被爆者の私にできることは、福島の地元のこどもたちを放射能から守ることだと思った。福島ネットワークからは「子どもたちの尿から高いセシウムが検出され、甲状腺異常も出ている。私たちはもう拳を下ろしません」との叫び、広島から駆けつけた医師は「ヒロシマの被爆医療にたずさわって」と題して、広島の原爆被害の実態を報告した。定期的健康診断の実施、よりどころとなる医療機関が必要。ぜひ診療所を造ろうと提起された。私も長崎の被爆者として微力ではあるが、子どもたちを放射能のある環境から、一時でも離してやりたい。
藤田祐幸先生から学ぶ長崎では、「放射性物質は、その場から離してはいけない。人は一刻も早く、その場から離れなさい。」を合言葉にNAZENナサガキの取り組みとして、「子どもたちを高島へ 保養の島へ」と、計画中である。問題は、福島からナガサキは遠く離れすぎていること、交通費がかかることで未だ保養したいと言う希望者が出てこないということで、悩みながら、その日のために努力しているところである。
今考えると一ヶ月ばかり長崎を離れていたのだ。このことは、食料がなく、住むところが破壊されていたので、長崎を出たに過ぎなかったが、偶然ではあったが、医学的には最もよい方法をとっていたことが、福島原発をきっかけに、解明されたと思っている。つまり、「被曝により、傷つけられた遺伝子は、一定期間の保養において、修復ができる」ということを聴いた。逆に、そのとき、救援のために長崎へ入った人たち〔入市被爆〕は、二次被爆により、内部被爆していったのだ。今福島で起こっていることは、この入市被爆と同じようなことだと思う。68年前と違って、今は、見えない放射線も測定できる。福島の人たちは、毎日放出されている放射能物質のある町に、たとえ、除染したといっても、被曝し続けることになる。低線量内部被曝のことを知れば知るほど、月々子どもたちが被曝し続けるのだから、被爆者の私にできることは、福島の地元のこどもたちを放射能から守ることだと思った。福島ネットワークからは「子どもたちの尿から高いセシウムが検出され、甲状腺異常も出ている。私たちはもう拳を下ろしません」との叫び、広島から駆けつけた医師は「ヒロシマの被爆医療にたずさわって」と題して、広島の原爆被害の実態を報告した。定期的健康診断の実施、よりどころとなる医療機関が必要。ぜひ診療所を造ろうと提起された。私も長崎の被爆者として微力ではあるが、子どもたちを放射能のある環境から、一時でも離してやりたい。
藤田祐幸先生から学ぶ長崎では、「放射性物質は、その場から離してはいけない。人は一刻も早く、その場から離れなさい。」を合言葉にNAZENナサガキの取り組みとして、「子どもたちを高島へ 保養の島へ」と、計画中である。問題は、福島からナガサキは遠く離れすぎていること、交通費がかかることで未だ保養したいと言う希望者が出てこないということで、悩みながら、その日のために努力しているところである。