デトロイト詐欺...「自動車大企業と米国政府が生んだ悲劇」
第2次世界大戦後にデトロイト復興...1967年にはすでに人口が減少
チョン・ウニ記者 2013.08.10 12:52
米国の保守政治家と主流言論が米国ミシガン州のデトロイト市が破産した責任を労働組合に転嫁している。しかし、デトロイトの事例はそもそも米国連邦政府と自動車大企業が生んだ悲劇だという指摘が提起され、注目されている。
米国の社会運動家、マリリン・カッツ(Marilyn Katz)は8月8日、米国の独立言論 「In These Times」への寄稿で、デトロイトは世界的に有名な1967年7月の暴動の前に、すでに幽霊都市だったと指摘する。当時の暴動は、黒人ベトナム参戦軍人が復帰した後、人種差別と自動車産業の移転による失業への不満から勃発し、43人の死者を出した。カッツはこれには連邦政府と自動車大企業の責任が大きいとし、 彼らがいかにデトロイトを没落させたのかを提起する。
[出処:http://inthesetimes.com/]
カッツはまずデトロイトの親労組政策が都市を破産に追いやったという米国の政治家と保守言論の扇動を指摘する。例えば、ウォールストリートジャーナル のスティーブ・マランガと、ワシントンポストのマリリン・サリンジャーは、デトロイトの没落を1967年7月の暴動余波だと指摘する一方、The Postの編集陣は デトロイトの現政権と労組指導部を非難してきた。ニューヨークのマイケル・ ブルームバーグ市長はさらに強く、デトロイトのように破産したくなければ、ニューヨーク市も退職年金や健康保険の支出を減らすべきだと7日に語った。
しかしカッツは、デトロイトの多くの市長が多くの過ちを犯したのは事実だが、 都市の没落を招いたのは彼らではなく、自動車産業、そして彼ら利益を代弁する政治家たちが追求した連邦交通や住居政策だと指摘する。
第2次世界大戦後にデトロイト復興...1967年にはすでに人口が減少
カッツによれば、1930年代末と40年代の間に米国は戦争に総力を傾けながら、タンクや飛行機を製造する産業の成長を生み、これは人口膨張につながって、デトロイトの人口は1930年の150万人から1950年には180万人に成長した。
同じ期間に多くの人がフォード、クライスラー、パッカードやゼネラルモータース といった労働組合の保護の下で、相対的に低熟練労働だが、高賃金を受け取れる仕事を探してきた。しかし、自動車産業の移転によって1950年には180万人だった デトロイトの人口は、1967年8月にはすでに30万人以上減っていたし、その後の人口減少は10年ごとに同じように続いた。
The Nationは、今もデトロイトを「自動車都市」と呼んでいるが、この都市は1950年代末からすでにそうではなかった。フォード、ゼネラルモータースと、クライスラーなどの自動車大企業は、第2次世界大戦であげた収益を基盤として、そして自動車産業の需要の拡大を期待して、デトロイト郊外の周辺とオハイオ、インディアナそしてカナダなどの農地に新規工場を作り、デトロイト中心部から工場を移転した。1947年と1958年の間にビッグ・スリーと呼ばれるこれら3大企業は25の工場を作ったが、この中でデトロイトに建設されたものは何もない。
自動車大企業のデトロイトの工場移転は労組弱化戦略
カッツは自動車大企業の工場の移転は、当時デトロイトで自動化された新規の工場に適する地域が足りなかったからだと受け止められていたが、歴史学者の トーマス・ソグルーなどはこれに対して戦時には例がない利益を出した自動車 会社が、全国自動車労働組合(UAW)を弱めるために取った措置だったと見る。そのため自動車大企業がデトロイトで工場を移転したのは、活性化した労働組合を弱める戦略だったというのだ。
このように、デトロイトでは1960年代にすでに自動車産業と共に雇用も消えた。カッツは1960年には、クライスラーだけがデトロイトで自動車を生産しており、デトロイトの労働者数は10年前の12万人から半分に減った。1947年から1967年までに、デトロイトは自動車産業だけで12万8000の雇用を失った。
デトロイトの没落は、連邦政府の交通政策と不動産ローンの政策にも責任がある。
連邦政府、自動車大企業に偏向した開発政策
マリリン・カッツは1950年のデトロイトは白人が優勢な都市だったが、1970年までに多くの白人は郊外に移住したと指摘する。そして白人たちのエクソダス は、自動車工場の閉鎖による雇用損失の他にも連邦政府の政策によって触発されたという見解だ。
彼によれば、1949年、米国議会は連邦住宅法を通過させた。以後初めて人々は3%以下の低い金利で不動産ローンができるようになった。米国連邦住宅庁(FHA)のガイドラインは、戦後需要を充たしつつ、新しい郊外周辺都市を造成した。
都市郊外に移住した白人労働者たちは、通勤のために市内電車ではなく自動車 大企業のロビーと納税者の費用で作られた新しい高速道路を利用し、デトロイト の中心部はさらに人気がなくなった。
アフリカ系米国人にはローン制限...白人は逃走、黒人は混乱の中に
黒人たちにとって、これはかなり違った形で展開する。1930年以後、約20万のアフリカ系米国人がデトロイトに移住してきた。1950年まで、黒人はここの人口の16.8%を占めていた。彼らもまた郊外に移転した雇用について行くことを望んだが、これは不可能だった。都市開発業者と不動産 企業は黒人を差別し、政府の措置によって銀行は黒人に対する貸し出しを非常に危険と見て、ローンを敬遠したためだ。
1940年代と50年代に高速道路を建設した黒人たちはますます隔離され、高速道路の建設に連邦基金が集中して、公共交通基金は枯渇していった。そのため1956年、 市内の電車システムも歴史の中に消えた。
1950年のデトロイトは3万人以上の人口を持つ51の地域から構成されていた。 米国の完全雇用時代だった1960年代にも、デトロイトでは白人失業者は7%、 黒人失業者は13.8%から、1970年には黒人男性失業者は18%に沸き上がる。
1961年のデトロイトは1600万ドルの歳入縮小により初の予算赤字を体験する。 以後、市政府は40年間、ピープルムーブ、ルネサンスセンターなどの都市再生 政策を推進したが、雇用政策、都市再構造化などを度外視したため、すべて失敗した。
カッツによれば、都市の4分の1以上がこの期間に、連邦高速道路の建設と都市 再生政策の影響で破壊された。州は大型スタジアム、カジノとコンベンション センターを建設し、都市を隔離させた。州はこの事業を宣伝するにあたり、 雇用と市場の拡大を約束したが、借金を負っただけだった。
デトロイトには70万が住んでいるが、事実上、何の公共交通もなく、学校は130校、2万の製造業の雇用しかない。そのためカッツはデトロイトで黒人男性の失業率が米国で最高の50%に迫っているのは驚くことでないと見る。
カッツはこうした問題について、当時政策を推進したデトロイト元市長の ジェローム・カバノフ[1962-1970年の間の民主党市長]、ルイス・マリアーニ[1957-62年の間の共和党所属の最後の市長]と、州知事ジョージ・ロムニー[デトロイトが属するミシガン州の共和党出身の州知事で、全米自動車協会 元議長]の責任が大きいと見る。
こうした指摘は、デトロイト市政府が年金や社会福祉費などについて、親労組 政策を展開したことで都市を没落させたという主流言論の見解とは全く違う。デトロイトの没落は、労組弱化戦略、雇用政策のない都市開発、人種主義的な住宅およびローン政策を主導した連邦政府と自動車大企業が生んだ悲劇だという のだ。そのためにカッツは、デトロイトの没落から学ぶべき教訓は、企業の社会的責任の要求、公共財産の保護と共に人種主義に対する反対だと提起する。
デトロイトは7月18日、185億ドルの負債を理由として、破産保護を申請した。その後、共和党のスナイダー州知事が非常管理人に任命したケビン・オーは、 元職・現職の公務員の年金削減、社会保障費削減などを進めている。ケビン・ オーは破産法律会社のジョーンズ・デイの所属で、デトロイトの負債を所有する ウォールストリートの多くの銀行を代表している。