Quantcast
Channel: たたかうユニオンへ!
Viewing all 4073 articles
Browse latest View live

[転載]11・3全国労働者総決起集会へ!緊急全国アピール

$
0
0
緊急全国アピール
 
 11月集会まで、あと2週間と迫った。ここにおいて、最後の組織戦に決起することを訴えます。
今明らかになっていることは何か。それは、国鉄分割・民営化体制の大破綻です。925判決情勢とJR北海道事故が重なることで、もはや国民的規模で確認されている。さらには、福島原発事故と一体のものであり、国鉄-原発をもって革命情勢が一気に引き寄せられている。
 
 訴えたいことは2点です。
ひとつは、11月集会の成功は誰の肩にかかっているのか?ということです。これは、誰がこの集会の成功を望んでいるのか、ということでもあります。
 皆さん! 全国協こそが、私だと手をあげようではありませんか! 
 11月集会とは、それこそ全国協自身の集会なのです。第5回大会で、小竹運輸の労働者と肩を並べた。うれしかったし、胸も熱くなった。そして、この新たな仲間が、集会壇上に立つのです。鈴コン分会・吉崎分会、そして小竹運輸が一挙に登場しますが、この瞬間こそが集会のハイライトであり、「闘う労働組合をつくり、11月集会に結集しよう!」の実践そのものとなるのです。
 もうひとつは、組織戦に総決起しよう! ということです。
 まず、全国協の10割動員を目指しましょう。自分たちの集会に来るのは当たり前です。仲間に手を貸し、また手を借りる。そうして、全国協を真に闘う組合にしていこうではありませんか。
 次は、“家族ぐるみの動員”を実現しよう! ということです。
 小竹運輸労働組合では、過労死した労働者の家族が組合員になっています。これは鈴コン分会でも同じです。また、動労千葉の家族会の歴史や最近の関生の話しからも明らかです。それこそ、家族を連れて、家族総出で参加しようではありませんか。全国協の仲間がその気になれば、一気に倍増になることは間違いありません。
 
 11月集会は、新自由主義の崩壊を打倒へと転ずる歴史的闘いであり、まさに“人生をかけて”闘うにふさわしい大闘争となりました。
 全国協は、今こそ総決起し、自らの力で歴史を切り開くべく総決起しようではありませんか。共に闘いましょう。
 
    1020日 合同・一般労働組合全国協議会
 
イメージ 1
 

転載元: たたかうユニオンへ!


[転載]全教組死守 民主労総決議文

$
0
0
全教組死守
   民主労総決議文
 
全教組を守る闘いは民主労組を守る闘いだ
 
 パククネ政府の全教組弾圧は民主労組抹殺と労働者殺しの信号弾だ。パククネ政府がなくしたいのは全教組だけではなく民主的な労働組合であり、以前の政権で類例のない全教組への弾圧は、労働者の闘争組織、民主労総の支柱を崩すための企てである。パククネ政府の弾圧に対して全教組を守りぬくことは、世界の労働者が当然に享受する労働基本権を守りぬく闘いであり、この地の労働者の希望、民主労総を守る闘いだ。
 
全教組を守る闘いは歴史を正しく打ち立てる闘いだ
 
 パククネ政府が今、全教組を攻撃するもう一つの理由は、全教組が、守旧勢力が推進する歴史の歪曲を阻む最後の阻止線だからである。親日・独裁賛美の教科書が作られ、歴史を歪曲して民主主義を破壊しようとしている。親日派が近代化の主役となり、独裁者が賛美されればいつでも新しい独裁者が出現するしかなく、独裁の暴圧で最も苦しんだ者はいつも労働者だった。清算すべき歴史を美化し、労働者が人間扱いも受けなかった時代に回帰しようとする攻撃を民主労総は決して容認しないだろう。
 
全教組を守る闘いは民主主義を守る闘いだ
 
 真の教育のために闘って犠牲になり解雇された先生たちの資格に言いがかりをつけて全教組を法外労組に追い込む労働部が民主主義の時計を逆に回しているなら、労働組合の集会に先生が参加するのは違法という公文書を出した教育部の行動は、維新体制が復活したのではないかと疑わせる。国家情報院が選挙に介入し、民主勢力には公安の刃を向け、今や全教組への全面的な弾圧へとつながり、民主主義は破壊されている。
 
 民主主義が破壊され独裁が復活すれば、87年に独裁と対決して民主主義をかちとった歴史が示す労働者民衆の激しい闘争も復活するだろう。パククネ政府が全教組と民主労総への弾圧によって夢見るものが朴正熙時代の労働政策の復活であるなら、新しいチョンテイルに出会うことになるだろうし、全斗煥時代の労働政策の復活であれば、新たな労働者大闘争に出会うことになるだろう。民主労総は、全教組を弾圧し民主主義を破壊しようとするパククネ政府と断固として闘い、その闘いの決意を次のように明らかにする。
 
 一つ。全教組弾圧を粉砕し、すべての労働者の労働基本権獲得のために総力闘争を決意する。
 一つ。歴史を歪曲し親日と独裁を賛美するニューライト教科書を阻止するために総力闘争を決意する。
 一つ。民主労組への全面的な攻撃と対決し、10月15日全国単位職場代表者の非常時局大会、10月26日の決意大会と11月10日の全国労働者大会を全力で組織することを決意する。
 
2013年10月11日
全教組死守! 民主労総決意大会参加者一同
 
イメージ 1

転載元: たたかうユニオンへ!

[転載]11・3全国労働者総決起集会へ!緊急全国アピール

$
0
0
緊急全国アピール
 
 11月集会まで、あと2週間と迫った。ここにおいて、最後の組織戦に決起することを訴えます。
今明らかになっていることは何か。それは、国鉄分割・民営化体制の大破綻です。925判決情勢とJR北海道事故が重なることで、もはや国民的規模で確認されている。さらには、福島原発事故と一体のものであり、国鉄-原発をもって革命情勢が一気に引き寄せられている。
 
 訴えたいことは2点です。
ひとつは、11月集会の成功は誰の肩にかかっているのか?ということです。これは、誰がこの集会の成功を望んでいるのか、ということでもあります。
 皆さん! 全国協こそが、私だと手をあげようではありませんか! 
 11月集会とは、それこそ全国協自身の集会なのです。第5回大会で、小竹運輸の労働者と肩を並べた。うれしかったし、胸も熱くなった。そして、この新たな仲間が、集会壇上に立つのです。鈴コン分会・吉崎分会、そして小竹運輸が一挙に登場しますが、この瞬間こそが集会のハイライトであり、「闘う労働組合をつくり、11月集会に結集しよう!」の実践そのものとなるのです。
 もうひとつは、組織戦に総決起しよう! ということです。
 まず、全国協の10割動員を目指しましょう。自分たちの集会に来るのは当たり前です。仲間に手を貸し、また手を借りる。そうして、全国協を真に闘う組合にしていこうではありませんか。
 次は、“家族ぐるみの動員”を実現しよう! ということです。
 小竹運輸労働組合では、過労死した労働者の家族が組合員になっています。これは鈴コン分会でも同じです。また、動労千葉の家族会の歴史や最近の関生の話しからも明らかです。それこそ、家族を連れて、家族総出で参加しようではありませんか。全国協の仲間がその気になれば、一気に倍増になることは間違いありません。
 
 11月集会は、新自由主義の崩壊を打倒へと転ずる歴史的闘いであり、まさに“人生をかけて”闘うにふさわしい大闘争となりました。
 全国協は、今こそ総決起し、自らの力で歴史を切り開くべく総決起しようではありませんか。共に闘いましょう。
 
    1020日 合同・一般労働組合全国協議会
 
イメージ 1
 

転載元: たたかうユニオンへ!

10・11 NAZEN神奈川を結成 労働組合の闘いを軸に

$
0
0

10・11 NAZEN神奈川を結成 労働組合の闘いを軸に

 10月11日、「すべての原発いますぐなくそう!全国会議・神奈川」(NAZEN神奈川)結成集会が横浜市内で開催された。全参加者は、NAZEN神奈川の旗のもとに、すべての原発をなくすまで闘い抜くことを誓った。
 2011年3月11日からちょうど2年7ヶ月。この間神奈川県内各地で東京電力神奈川支店に対する抗議デモや福島の子どもたちの保養運動、震災ガレキ搬入反対運動、ふくしま共同診療所建設運動、定期街宣等々、様々な運動・取り組みが行われてきた。
 私たち自身の魂の希求としてNAZEN神奈川を結成しようと結成準備会・呼びかけ人会議を積み重ね、NAZEN神奈川を結成するに至った。

 結成集会は、基調報告として「再稼働を阻止し、すべての原発をなくしていこう! 闘いの鍵を握るのは、労働者・労働組合。闘う労働組合をよみがえらせ、その力でいっさいの核と原発を世界から一掃しよう!」「11・3労働者集会に結集しよう。再稼働を許すのか否かの帰すうを11・3労働者集会が握っている」「福島の怒りを共有して闘おう。内部被曝から命を守ろう。再稼働を進める新自由主義をうち破ろう」「三浦半島では、教育委員会による学校給食食材の『100ベクレル/kg安全論』撤廃のとりくみをめぐって、教育労働者と保護者の連帯によって、体制内執行部と全面激突をつくりだしています。動労水戸に続き闘う労働運動をよみがえらせよう!」とNAZEN神奈川の闘う路線が力強く提起された。
 動労水戸の石井委員長が被曝労働拒否闘争の報告を行った。「放射能で汚染された車両の検査をやれという攻撃に対して、“労働者には被曝しない権利がある”とストライキで闘い、被曝労働を阻止してきた」。石井委員長は、原発事故は全く収束しておらず、多くの労働者が被曝させられている現実の中で、労働組合が被曝労働拒否して闘うことが労働者の命を守ることであり、反原発闘争としても決定的闘いであることを訴えた。そして福島切り捨てと一体である来春の常磐線の竜田延伸攻撃はさらなる被曝労働を強制するものであり、竜田決戦として闘い抜くことを訴えた。
 またNAZENの織田陽介事務局長は、「NAZENを作るということは組織を作るということ。組織があって国家権力と闘うことができる」とNAZEN神奈川結成の意義を訴えた。
 各地で原発反対で闘う人たちのアピールもパワフルだった。「毎週、官邸前行動に参加。何万人集まろうと時間になったら皆帰って行っておしまい。空虚な闘いにしないために労働組合が大事。原発はそのうち必ず壊れるもの。ポイントは労働者」「保養受け入れ活動をこの間4回行った。現地とつながることが大事だと痛感した。避難した家族を支えていくことも重要だ」「震災ガレキ受け入れ反対の要請行動を行い、労働組合とも団結することができた」
 最後に、結成宣言文を採択し、行動方針が提起された。
NAZEN神奈川は、再稼働を阻止し、すべての原発をなくすために全力で闘い抜く。(神奈川・N)

イメージ 1

柏崎刈羽原発の再稼動に反対し、廃炉をもとめる新潟県内10団体による県知事申し入れ行動

$
0
0
イメージ 1
 
イメージ 2

柏崎刈羽原発の再稼動に反対し、廃炉をもとめる新潟県内10団体による県知事申し入れ行動

  10月24日、NAZENにいがたをはじめ、「柏崎刈羽原発の再稼動に反対し、廃炉をもとめる署名」に取り組む、新潟県内の10の団体による新潟県知事への申入れ行動が行われました。各団体を代表して20人ほどが県庁舎に集まりました。県知事に対する要望項目は、
 一、柏崎刈羽原発に関して県民の安全第一の立場を堅持されること、
 二、柏崎刈羽原発の再稼動を認めず、廃炉にすること、
 三、再生可能な自然エネルギーを積極的に導入して雇用を創出し、県民の暮らしを守ること、
の3点です。
 これまで集められた全体で2万筆ほどの署名を持って行き、県の防災局および産業振興課に対して提示して、要請書を読み上げました。NAZENにいがたでは毎週行っている「反原発土曜行動」において、この間100筆前後の署名が寄せられており、今回これまでに集まった4300筆余りを持って行きました。
 申入れに伴う質疑が各団体から県に対して出され、NAZENにいがたも再稼働反対と廃炉に関しての県の考えに疑問をぶつけました。、また東電が県に設置許可を求めたフィルター付きベントに関して、参加者から懸念の声があがっても、県の回答は住民の不安に答えるものとは思えませんでした。
 福島第一原発から大量の汚染水が放出され、事故収束がままならない状況が続いている中、柏崎刈羽原発の再稼働をもくろむ東電に、新潟県でも懸念と怒りが満ちています。今回私たちは県知事に直接会って要請することを希望しましたが、知事本人は出席せず県の担当者が対応したことに、参加者から残念だという意見が出されています。今回は中間集約のため署名を県に提出していませんが、今回の要請行動の意義の第一は、県内で原発反対を明確にしている諸団体が共同で行動したことです。NAZENにいがたは、原発再稼働反対の立場を明確にしている県内各地の会とともに今後も署名集めを継続し、柏崎刈羽原発再稼働反対でたたかっていきます。(新潟・HG)
 

秘密保護法阻止を掲げデモ貫徹 情報隠しの東電本社を直撃

$
0
0
イメージ 1
 
イメージ 2
 
イメージ 3

秘密保護法阻止を掲げデモ貫徹 情報隠しの東電本社を直撃

 原発情報などを隠ぺいし、言論統制と団結破壊を狙う特定秘密保護法案の10月25日閣議決定・国会提出強行に対して、安倍政権への怒りが爆発的に高まっています。26日には、救援連絡センターほか「共謀罪」を三度廃案に追い込んできた仲間や新捜査手法反対連絡会議などの呼びかけで、秘密保護法案絶対阻止・一切の治安立法反対のデモが都心において打ち抜かれました。
 台風を吹き飛ばし、晴れ間ののぞく新橋から銀座方面に向けて百名を超えるデモ隊が、「秘密保護法は戦争への道」「共謀罪も盗聴法もいらない」と訴え、繁華街の通行人にアピールしました。東京電力本社前では、「原発事故の責任を取れ」「再稼働を許さないぞ」と怒りを倍加。秘密保護法案が通れば、東電の「大本営発表」が検証もされず大手を振って垂れ流される。情報公開を要求するだけで「独立教唆罪」! こんなことが許せるか!と抗議を叩きつけました。秘密保護法案攻防が、労働者人民と安倍政権との対決法案となり、マスコミが書き立てるなかで労働者の関心が集まる状況だけに、相当な大注目を浴びました。
 デモに先立ち、新橋の交通ビル内「国鉄労働会館」において、戦争・治安立法と改憲に反対する集会を行いました。せっかく国労会館なので、国労本部の闘争終結を許さず国鉄解雇撤回の10万筆署名を訴えよう、ということで集会参加者から多くのご協力をいただき、11・3労働者集会チケットも販売しました。
 連帯挨拶では「憲法と人権の日弁連をめざす会」の武内更一弁護士が、裁判員制度反対11・14最高裁デモの方針提起。港合同の川口浩一さんからのカンパアピールの後、石川裕一郎さん(聖学院大学准教授)から、共謀・教唆等の重処罰、適正評価制度による選別を行う秘密保護法は「表現の自由」を侵す憲法違反で、秘密裁判化などもはや近代国家とは呼べなくなり、表現の萎縮や弾圧を招くなど運動への影響は大きいと講演。参加者は絶対廃案の決意を強くしました。
 基調提起では、「知る権利」から進んで、「戦争と治安管理国家化」総体と対決する大衆運動、改憲・集団的自衛権行使の為の国家安全保障会議(日本版NSC)設置法案や今国会でのカンパ禁止法大改悪、来年へと続く「共謀罪」、盗聴法改悪を見据えた闘いの構築の必要性が出されました。
 続いて現場からのリレートーク。爆取弾圧被告で上告審中の板垣宏さんの発言は、高裁が被告の事件への関与がまるで明らかに出来ないことは「紛れもない事実」とまで認定しながら結論は「共謀」で「やったに違いない」とする、むき出しの治安裁判との闘いについて。これを筆頭に、国家権力・資本の凄まじい治安弾圧との現場の対決が次々と訴えられ、基調提起と合わせて、これらを規定する「新自由主義下の戦争と治安管理国家化」との根底的で幅広い反撃陣形の構築の必要性が導き出されてきました。
 安倍政権は、外への侵略戦争と、内への階級戦争(治安管理国家化と一体で公務員攻撃・労働運動解体を突破口に民営化・外注化・非正規化を推進)で全国を「ブラック企業特区」として企業の自由な搾取を実現しようとしています。これと対決し団結を広げて勝利する道は、国鉄決戦を軸とした階級的労働運動の前進にあります。
 今、秘密保護法案阻止闘争が、公務員攻撃による労働者階級の団結破壊を進める安倍政権に対する巨大な反撃の突破口へと押し上げられてきました。反原発闘争も秘密保護法反対闘争と融合して発展してきています。国鉄決戦を基軸・基礎とした公務員労働運動等の前進と大衆的闘いを結びつけ、安倍政権打倒の大闘争をつくり出しましょう。(東京 Y・N)
 

台湾の有名人たちが歌う反原発ソングが感動的! (日本語字幕付

[転載]台湾の有名人たちが歌う反原発ソングが感動的! (日本語字幕付


民主労総大会前夜祭

$
0
0
韓国からブログにつなごうと思ったが、慌ただしくてすっかり忘れてしまった!寒い雨の中での前夜祭は熱かった!
 
イメージ 1
 
イメージ 2
 
イメージ 3

[転載]【報告】学習会「神奈川県在住被爆者の現状について学ぶ」@中村雄子

$
0
0

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/51/47/tocka_jikkoi/folder/1078840/img_1078840_64769661_3?20131119225315

神奈川県在住被爆者の現状について学ぶ

第一回学習会 2013年11月9日17時30分~20時
講師:中村雄子さん(神奈川県原爆被害者の会事務局長)

中村さんは今年81歳になられるとのことですが、大変お元気そうで、広島の地図を持参され、被爆当時の事から初めて、これまでのご生活、そして被団協に入られてからのこと、今なさっている運動について話をされました。                             

http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/51/47/tocka_jikkoi/folder/1078840/img_1078840_64769661_0?20131119225315
講 演
<1945年8月6日のこと>
被ばくしたのは13歳、(広島県立第一高女)2年生のときだった。その年3月父親が戦死し、牛田の家から祖父母の住む宮島口に引っ越して電車で通学していた。軍事工場の多い市内に働き盛りの成人はおらず、女学生までが工場へ駆り出されていた。しばらく煙草製造工場で働いていたが、7月17日から市の中心から少し離れた航空機工場で飛行機の部品と思われるジェラルミンの破片を磨く仕事をしていた。

その時まで広島市は空襲らしい空襲に遭っていなかった。8月6日は配電を休む「電休日」で工場は休みだった。それで5日、先生が「今年は泳いでおらんけ、明日は泳ぎに行くか、水着持ってこい」と言われた。翌日はよく晴れ、高須駅から工場に歩いて向かうときも嬉しい気持ちだった。ところが、先生が敵の飛行機が来て様子がおかしいから、それぞれの場所で待機しておけ、と言われたので、自分は工場の中で本を読んでいた。そのうち、「飛行機が一機来た」という声がした。しかし一機なら空襲じゃないと思っていた。

ところが「落下傘みたいなもの落とした」という声がしたので、珍しいと思って腰を浮かした瞬間、ガラス窓の向こうがピカッと光り、そちらを向いた途端、爆風がガラス窓や土壁を破って吹き込み、私は沢山のガラスの破片に突き刺され、部屋の端まで吹き飛ばされた。(そのときのことを中村さんが絵に描かれたものが神奈川の被爆者の画集に載っており、それをみせながら話をされた)今もその傷が残っている。飛行機は又戻ってくると思い、工場を逃げ出して近くの防空壕に逃げた。体中が血だらけだったので、前にある井戸の水で拭いていた。先生がさっと薬を塗り包帯を巻いてくださった。

そのとき、空の上から黒いものがポタポタ落ちてきた。黒い雨だったが、その時は何なのかわからなかった。皆は飛行機が戻ってきてガソリンを撒いたと思った。こうして皆殺しにするつもりなんだと皆で話しながら防空壕へまた逃げた。その日は青空だったが、逃げるとき、水色の雲がウヮ-ッと広がってきたので怖かった。それは遠くからきのこ雲に見えたものが西へ流れてくる途中の姿で、そのとき黒い雨も降ったようだ。私たちがいた己斐(こい)・高須・古江(ふるえ)地区は特に黒い雨が降ったところだ。私は怪我をしていたので先生は家に帰るよう言われた。その日、宮島線は古江の次の草津から動いていた。これはすごいことだった。それで血だらけの姿で家に帰った。

われわれは爆心地から少し離れた工場に行っていたが、一年生は、火除け地を作るため家屋をこわす作業を市の中心部で手伝っていた。壊した家屋の廃材を仕分けする仕事だ。丁度作業前で朝礼を終わった頃、落下傘が落ちたと思う間もなくピカッと来て、同窓の一年生223人全員が亡くなった。数人大やけどをしながら生き延びた人もいたが結局亡くなった。広島では動員されて建物疎開をしていた学徒8000人のうち6000人が亡くなったといわれる。(本を見せながら)これは、広島の資料館が毎年出している資料のうち「学徒動員」を特集したものだ。学校別の死亡者が出ている。若い人たちが亡くなった話をするのはいつもつらい。  
 
<原爆投下後の広島>
原爆が落ちた後9月に入ると、ニューヨーク・タイムズやロンドン・デイリー・ニュースの記者が広島の報道をしにやってきた。そして「これほどの惨状はあちこちの戦場を回ってきたがはじめてだ」という記事を書いた。すると、アメリカのファーレル准将が翌日広島に来て、「広島では死ぬべき人は皆死んだ、9月初旬に苦しんでいる人は一人もいない」と言った。これは大嘘だ。救護所の中でどれだけ苦しんでいたか。

しかし、それ以降プレスコードが布かれた。一切の原爆に関する報道は指し止められた。研究も、報道も、しゃべることさえいけないとなった。私たちは、自分たち自身で机を運んだりして女学校を再興したが、アメリカ兵を見ると皆シーッと言い合った。約8年間隠ぺい状態が続いた。原爆投下後、東大の都築(正男)博士がすぐ原爆症の調査をされたが、それも一切取り上げられなかった。8年が過ぎた後、今度は日本政府が報道差し止めを2年やったので、結局10年間隠ぺいが続いた。

その間に沢山の人たちが、何の手当もなく苦しみながら死んでいった。被爆で大やけどをすると、皮膚が赤剥けになるが、普通の場合皮膚は再生する。しかし、放射線だと皮膚は再生しない。再生しない皮膚にウジがわく、救護所はそんな人であふれていた。手当をする人もいないまま、排泄物や胃から吐く血があふれた中、亡くなっていった。その年の暮までに、死者は広島14万人、長崎7万人、合計21万人と言われる。隠ぺいの10年間に、癌、とくに白血病で亡くなる人が多かった。それでもそれは原爆が原因だとは言われず、伝染病と言われたりした。 
 
<被団協結成と被爆者集会への参加> 
その後、1954年(昭和29年)のビキニ水爆実験で被爆者が出たことから、抑えられていた感情が一気に爆発し、杉並から始まった署名運動が2000万を越え、1965年(昭和30年)8月には、第一回原水爆禁止世界大会が広島で開催された。そして1966年(昭和31年)8月、長崎で第二回世界大会があったとき、日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)が結成された。

ビキニの水爆実験のころ、私は結婚していた。その年、マグロはガイガーカウンターで放射線量を測定され、全部破棄されていた。それにつられてブリがものすごく安くなった。貧しい家計のなか、安いブリを沢山買って食べた。しかし安かったのは1年間だけ。生活に追われ、子供のミルク代を工面するのに懸命だったので、私の意識はその程度だった。

被爆者手帳は、1957年(昭和32年)から発給されたが、夫がもらった方がいいと言ってくれたので、34年に取った。その時は2キロ以内だと特別手帳だったが、2.8kの私は特別手帳ではなく医療費は出なかった。その後、特別手帳は3キロ以内となり、私にも国民健康保険から出る費用を除いた残りの自己負担分の医療費が出るようになった。様々な病気に対し、手当は始め2000円程度で、しかも所得制限・年齢制限があった。被爆者は、昼間勤めながら、国会や厚生省への働きかけをした。自分は夫の転勤に伴いあちこち転居していたが、それぞれの場で被爆者の会を覗きに行った。兵庫に住んでいた時は兵庫の会に参加し、大阪、山口でも参加した。ただ、転勤期間が短いので集中して何かすることはできなった。

印象に残っているのは大阪の総会で、分裂の時期だった。怒号のなか、米ソのどっちの核が悪いのか、抑止の核なら良いなど主張をする人もいて、殆ど男性たちが議論を戦わせていた。自分は被爆者として、原水爆、核兵器は悪い、と思っていたので、この議論には腹が立ち、しばらく被ばく者の会に参加するのをやめてしまった。核兵器廃絶に対してこのような思想的分裂は許されない、と今も思っている。

山口では20年間過ごし、被爆者の会にも入った。温泉で有名な湯田に、募金や寄付、おそらく県の補助で湯田園という被爆者保養施設が作られた。しかし、行ってみると、補助金などは施設存続のために使われて、被爆者は打ち捨てられているという感じを持ち反発してしまった。その後、28年前夫が東京転勤となり、今度は神奈川に住むようになった。しかし、このように、長く集中して被爆者のために活動することはできないままで来てしまった。平塚に住んだが、そこの被爆者の会にとても熱心な方がおられ、勧められて加わった。

<アニメ『夏服の少女たち』とその後>
そのころ、8月6日に、『夏服の少女たち』という実写混じりのアニメをNHKが放映した。これは、223人全員が亡くなった同窓の1年生の話で、彼女らが残した日記をもとに作られていた。最初に画面に登場したのは、一緒に宮島から通っていた森脇瑶子さんの、目のぱっちりした可愛い写真だった。日記は彼女のものを主に使ったそうだ。宮島からの船でお母さんがせっかく買ってくれた帽子を風に飛ばされる場面もアニメに出てきた。

この番組を見て、彼女たちが戦争中、したいこともできず、勉強したくてもできず、遊ぶという気持も当時はなく、必死で生きていたところを原爆で死んでいったことを改めて思いだした。このことを忘れてしまってはいけないのだ、特に今の子供たちに分かってもらいたい、小学校6年生や中学校1,2年生を前に、亡くなった子供たちのことを話すのが自分の務めだと思うようになった。

自分の子どもが小学生と幼稚園生になったころ、31歳のとき大病になり、2回手術を受け卵巣を二つ取った。女性としてこれをいうことができるようになったのは70歳を過ぎてからだ。あのころ夏になると新聞に原爆による死没者の病名がよく出ていた。その中で卵巣がんは結構多かった。医師は言わなかったが、自分も卵巣癌だったのではないかと思った。夏はだるくて起きていられず、冬はすぐ風邪をひいて寝込む、いわゆる「原爆ぶらぶら病」のような状態だった。しかしそのような中で、運動に入っていった。

その後、長く神奈川の運動を支え、すべてを分かっておられる被団協事務局長が、脳溢血の発作で68歳で倒れられた。左半身が不随となられ、辞職の意思が固いので、私が何も分からないながら、65歳で仕事を引き継ぐことになった。

<被団協の闘い>
被爆者運動はこの60年間、多くの人が頑張っていろいろ勝ち取ってきたが、運動の中心を担った人たちの殆どが亡くなってしまった。

今、「現行法の改正」を求めて運動している。改正点は、原爆で亡くなった人、戦争で亡くなった人すべてに対し、国は償いをするべきだということだ。国家補償、これは国が一番やりたくないことだが、孫振斗さんが在外被爆者にも日本人同様の援護を求めた裁判で、最高裁判所は次のような判決を下した。「(被爆は)遡れば戦争という国の行為によってもたらされたもの、原爆医療法は、特洙の戦争被害について戦争遂行主体であった国が自らの責任によりその救済をはかるという一面をも有するものであり、その一点では実質的に国家補償的配慮が制度の根底にあることは、これを否定することができないのである。」

こうして、すべての被爆者への国家責任を明確にした。この判決はわれわれの力になっている。軍人・軍属は国との契約があるので恩給などが受けられる。しかし一般市民にそれはない。だが、被爆し、支援もないまま亡くなった人に対して、国は何らかの補償をすべきだ。勿論被爆者の遺族も高齢化しているだろうから、今更金銭を手にできる人も少ないだろうが、今後のため、「戦争で亡くなった人には一般市民であっても補償する」という確約がほしい。これは戦争をしないという約束でもある。

<原発反対>
原発には原爆とは違う恐ろしさがある。被爆者は始め、あんなに恐ろしい原爆が平和に使われるのならと思って反対しなかった。しかし、次第に同じものではないか、ということで原発にも反対するようになった。私は3年前、国連に行ったとき、ニューヨーク市立大で話をする機会があった。話のあと、大学生が「被ばく者は原子力の平和利用についてどう思うか」と質問した。そこで、「アメリカも日本も原発の恩恵には浴している。しかし、被爆者は、核、原子力の恐ろしさを身を以て体験しているから、「安心」は絶対にないと確信している、だから原子力利用には賛成できない」と答えた。「自分はあと何年生きるかわからないけれど、みなさんは若いのだから、クリーンなエネルギーの開発を一生懸命やってください、原子力はこわいです」と言った。

その翌年、福島の事故があった。原爆は熱線、放射線、爆風を受ける大きな災害だが、一回きりだ。広島ではその後大型大風が来てかなり水に流してくれた。そのため75年間草木も生えないと言われたが、今そうはなっていない。しかし、福島はいまだに放射線を垂れ流し続けている。小泉元総理が使い済燃料の捨て場もないということを言われている。最近福島の子供たちがどのくらい放射線を浴びているか測るため胸に(ガラス)バッジをつけている。そのバッジを下げた可愛い女の子の写真をいつも鞄にいれている。こんなものをつけなければいけないのか、こんなものをつけなくて済むように早くなってほしいと思う。事故現場で作業する人も何時間か経つと警戒音が鳴り作業を中止しなければならないという。

福島をなんとかできないのか。阿部さんは言うことは調子がいいが、どうするかという内容がない。阿部ファンの方がおられたら申し訳ないけど、自分は阿部さんがテレビに出てくるとチャンネルを変えてしまう。許せないと思っている。あの家系は山口では毛利藩のころから家老をしていたということで、山口にいたころ偶々訪ねたことがあるが、家もすごく立派だ。佐藤栄作がノーベル平和賞をもらったのも許せない。

<韓国とのつながり>
広島で韓国の方が多く住んでいたのは、(地図を指しながら)この福島町で、爆心地から2キロくらいの所だ。植民地出身ということで日本人は大変な苦労をさせた。その中で原爆に遭って死ななければならなかった人が大勢いた。今年と一昨年と2回韓国の慰霊祭に出席したが、3年前に行ったときは、韓国が冬のオリンピック開催地に決まったときだった。

1945-6年ころ、毎日のように韓国へ大勢帰って行く朝鮮の人がいたが、北朝鮮への帰国は少しあとだった。ある日、母親と一緒に駅で列車を待っていた。当時、列車にはなかなか乗れなかった。あきらめていたら、韓国へ帰る朝鮮の人だけを乗せた、アメリカ兵に率いられた列車が駅に止まった。するとアメリカ兵が乗れと言ってくれたので乗った。

大勢の朝鮮の人に囲まれるなか、母親が目の前の青年に「大変つらい思いをされましたね、これから国に帰られたら、お国で頑張ってくださいね」と言った。すると、若い青年が握手をもとめて手を差し出し、母と握手した。このことは強く印象に残っている。慰霊祭の挨拶でこの話をした後、原爆で亡くなられた大勢の韓国の人たちに、今発展している韓国、冬のオリンピック招致の決まった国を見せてあげたい、と話した。そのとき、いいお話しをしてくださいましたねと言われた。
 
http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/51/47/tocka_jikkoi/folder/1078840/img_1078840_64769661_1?20131119225315
講師との質疑応答
<神奈川の被爆2世>
質問:神奈川県の被爆2世について話してほしい。
講師:神奈川では、まず2世の人たちが健康診断を受けられる体制を作った。その後われわれの会が一生懸命運動したのと革新系の長洲知事の力添えもあって、医療補助を伴う被爆者手帳の交付となった。被爆1世には健康管理手当という何種類かの手当があるが、対象になる病気は11種類だ。これに2世の人が罹った場合、自己負担分を補助することにした。東京は入院に補助がでるが、神奈川では通院でも補助が出る。この11種類の病気に癌もふくまれており、最近は癌になったり癌で亡くなられる2世の方も増えているようなので、助かっている。その中には糖尿病もあり、治療が長くなるので、この助成があるのはよい。

しかし、国民健康保険、社会保険に加入していることが前提だ。被爆手帳があっても保険証を持たなければ補助対象にならない。保険料を払えない人もいるので、その場合は、1,2か月有効の保健証もあるから、少しのお金を入れて保険証をもらったらいいと話す。2世の人に被爆手帳を出しているところは、国内でもとても少ない。

しかし、神奈川県では、被爆手帳を持つ人は多いのに、検診を受ける人は400人と少ない。それは、2世はまだ現役の人が多く、職場の検診の方が種類が多いのでそちらを受けることと、2世には検診に癌が入っていないためだ。医療機関で癌の疑いをもたれ、精密検査を受けたり治療を受ける段になえると補助の対象になるが。もう一つ大病をしている2世はすでにいろいろ検査を受けているので受診しない、これらが受診者が少ない理由だろう。

神奈川では十数年前に2世調査を行った。被爆1世に子女のことを調査書1人1枚づつで書いてもらった。800位返信があった。そこには、この提出に2世の了解を得たか、2世は2世被爆者の会に入りたいと思っているか、資料を送ってほしいかなどの項目も入れた。しかし、これが被爆2世が2世の会に入るきっかけとなったかというとおぼつかない。現在、「ニュース」を送っている2世は180人、会費を入れている人は100人ちょっと、役員をしたりして常時参加している人は10人くらいだ。ニュースは『青桐』という名だ。被爆地広島で芽生えた青桐にちなむ。2世はすでに60歳を越えている人もいる。

質問:2世の方にご病気の人はあまりおられないか?
講師:おられるが、一般の人と比べてどうかというのは私にもわからない。本当は2世調査が必要なので、厚労省にも2世3世調査をしてほしいと我々も言っているが、厚労省は2世3世に関心を示さない。また、2世の人にもひっかかるものがある。2世は原爆に遭っていない、しかし、遺伝的要素があるから検診や医療費助成の対象になっている。「遺伝」が考えられないと2世と言えない部分があり、それが一番ネックになっている。中には「2世」と言われたくないと言う人もいる。

質問:2世に限らないが、検診を受ける場所や期間は決まっているか?
講師:被爆手帳は県内の医療機関であれば殆どどこでも使える。ただ、検診は指定医療機関で、1世は5月と11月、2世も前は同じ時期だった。2世はこの他に希望検診を2回受けられた。このように4回受けられたのに受ける人が少なく4回受けた人は1人だった。それで、今は、2世の検診は年1回となった。ただ、期間は5月から3月までならいつでもよいことになっている。指定医療機関により、時期を限定しているところもあるので、あらかじめ問い合わせた方がよい。

質問:受信項目の中に足りないものはないのか?
講師:運動としては項目を増やすことをずっと要請している。特に2世の検診項目に癌を入れてほしいということは10年も言い続けている。去年あたりからは2世も一緒に厚労省に行っている。西日本に2世だけで被団協とは関係をもたずに活動しているグループがある。この人たちも厚労省によく行っていて、勉強もしているが、日本被団協のような都道府県に会のある全国組織と一緒でないと厚労省も一応話は聞いても相手にしてくれないのではないだろうか。

<医師の研修>
質問:指定医療機関でなければならないのは、被爆者特有の症状があるかを見分ける特別の知識がそこにあるからか?
講師:最近は若いお医者さんが多いからそのようなことはあまりない。この頃は民主医療連合会に属する診療所を皆さんにおすすめしている。私も検診は診療所で受けている。被爆者が沢山行くのでちゃんと対応してくれる。

質問:沢山医療機関があるなかで、被爆者の人が行きやすい病院があるということか?
講師:大きい病院だと患者も多く、「被ばく者です」といっても流れ作業的に扱われてしまう。その点、診療所は親切に扱かってくれる。しかし手術となったら診療所ではできないから大病院に行かなければならない。

質問:医師は被爆者をみるための研修を受けているか
講師:広島・長崎では原爆病院もあるし、医師研修が行われている。しかし、神奈川では戦争も原爆も知らない若い医師が多く、研修はやられていない。

質問:被爆者検診のための医師研修を行うよう文科省か厚労省に交渉したらどうか
講師:厚労省はそういうことを言っても洟もひっかけない。申し入れはしているが。

質問:福島の事故もあるし、それと合わせて放射線についての研修を医師もやった方がいいとうが。
講師:しかし、原爆とフクシマを一緒にしたくないという考えが厚労省にある。被爆者に何かすると、今度は福島の方も何かしなければならなくなるのではないか、というような。

<放射線被害と医師>
質問:今は原爆とフクシマだけに限らない。診療の医療被曝も日本は世界一多い。X線を使う胃がん検診をしている国は他にない。医療被曝も含めて医師は放射線のことをもっと知った方がいい。
講師:それはそうだが・・私たちはなかなかそういう話にまで行かない。これからはそういう風にやって行かなければいけない。厚労省がどう考えているかはわからないが、福島の問題はすごく大きい問題だと思う。原爆の時は後から市内に入った人もいたが1か月位の期間で、その時一回きりだった。福島は垂れ流し状態だからそれが問題だ。

東海村の事故で大内さんと篠原さんのお二人が亡くなられた時の記録をNHKが放映し本にもしたが、あれは全世界に発信すべき内容だと思う。お二人は火傷していない。放射線を受けているために、皮膚はきれいだったのに絆創膏をはがすとその皮膚が再生しなくなる。妹さんの皮膚を移植してもダメだった。これと同じ状況が体内全部で起きた。皮膚が再生しないから中の赤身が出てしまう。火傷はしていなくても放射線の影響はそんなに怖い。

お二人を東大病院に運んで90日間本当に大変な看護をされた前川先生に、なぜか電話が通じてしまい、先生に一度来ていただいてお話しを伺いたいと申し上げたことがあった。先生は(お二人の死は)まだ最近のことなので、ご遺族のことや回りのこともあり、(仕事を?)終わることができないと言われた。私はあの内容は全世界に出していただきたいと思う。お読みになるといいと思う。『朽ちていった命』でしたか?(会場から『朽ち果てた命』、文庫本で出てます)前川先生にもっと発表していただきたかったと思っている。最高の医療をもってしても放射線被害を治すことはできなかったということを。

質問:最近、退職なさった先生が被爆後68年たってから発症する病気があることを発表された。いままで見られなかった疾病が出てきた。このような放射線医学の専門医は神奈川県におられるか?
講師:ちょっとわからない。広島にはいらっしゃる。広島の生協病院院長だった斉藤紀(おさむ)先生は福島のご出身だった。事故の2年前に福島市のわたり病院の医師になられた。先生はいろいろ言ってくださっているが、もっと言って下さってもいいと思っている。われわれと考えが違うかもしれないけれど。

<2世の実態と残留放射能>
質問:中村さんはお子さん2人育てられたと伺ったが、もうかなりの年齢になられたと思うが、健康の方はどうだったか?
講師:二人ともまあふつうの健康状態だ。上の子が今年還暦で60歳になる。下が56か7.大病はしていない。男の子が高校時代に過激な運動をしていて血尿が出たので、心配したが、突発性腎出血と言われた。それ以後出ていない。

質問:被爆2世の話のなかで、これは遺伝かと思われた例はあったか?
講師:戦後すぐ、昭和21年や22年とかに生まれた人のなかには、障害を持って生まれた人が多かったようだ。知的障害や身体障害などだ。それが原因で亡くなった方もいた。戦後早い時期はそのような隠された事実があったのではないか。広島ではそういう子供が生まれたという話を聞いたことがある。最近はあまり聞かない。自分は放射線被害で遺伝子が害を受けてもそれがずっと残るとは思っていない。

会場:放射線は広島市内にずっと残っていた。だけど、残留放射能を福島のように測っていない。
講師:残留放射能のことで、厚労省と交渉しているが、入市被爆者を厚労省はあまり認めない。新しい基準で2キロ以内に原爆投下後100時間以内に入った場合は認めるというのがあるのに認めない。実際、私は宮島にいたが、漁師の方が、広島が大変だから助けに行くといって出かけて、何人かは帰ってきて亡くなった。彼らは被爆しておらず翌日行ったのに亡くなった。

このように残留放射能はあるのに、厚労省や御用学者といわれる人たちは認めない。それで裁判で原告306人、うち神奈川から12人が闘って、一人だけ敗訴したが後は裁判で認められた。その中には爆心地から5.4kのところで被爆して癌になった人も入っていた。裁判所と厚労省の間には隔たりがある。今、認定制度のありかた検討会が作られているが、被団協からは2人しか参加しておらず後は厚労省サイドの人で苦労している。戦後60年ずっとこのように積み重ねをしてきた。

韓国の方は、当時日本国籍を持っていて被ばくしたのだから日本人と同じに扱ったらいいと私は単純に考えていた。いろいろな法律があってできない状況だったが、今は韓国にいても手帳を手に入れられる。医療費も今度少し増えた。上限が増えたようだ。少しずつ良くなってきている。2世については日本でやっていないから、韓国でも殆どされていない。

<韓国の被爆者>
会場:韓国では今、日本政府がやっていなくても、人権を護る観点から在韓被爆者2世についても医療費補助を立法化しようとする動きがある。
会場:地方では、ハプチョン郡だと被爆2世が健康診断を無料で受けることができたり、慶尚南道では、道が1世2世3世の健康実態調査を行い結果の分析をするなどしている。
会場:通常者と比較して異常に罹病率が高いので驚いた(これは2004年に行われた実態調査の結果の話だが、この報告書の概要は中村さんにも送付していた)。十分手当をされてこなかったことにも原因があるのだろう。

質問:韓国の方が多く住んでいた福島町は己斐(こい)の手前か。己斐(こい)は広島の西で黒い雨が多かったと聞く。福島町に黒い雨が多かったことは知られていることか?
講師:風が西に流れたので、己斐(こい)、高須、福島町はそうだった。私も黒い雨にびっしょりになった。

質問:今のホットスポットだ。そこに朝鮮から来た人たちは住み続けたのか?
講師:自分は早く広島を離れたため見ていないがが、韓国の人たちは家が壊れていても住んでいたと思う。だから、放射線の影響は沢山受けている。

<黒い雨の再調査>
質問:今、広島で、黒い雨の地域を調べなおすということが行われているようだが、韓国の人が住んでいた地域もその対象として調べ直しているのか?
講師:そこはちょっとわからない。手帳を取るとき、被爆場所を書かなければならないが・・・。

質問:黒い雨調査というのを去年NHKでやっていた。アメリカがやった調査のデータがずっと放影研に眠っていて、それが出てきたから、調査をやり直している、と聞いた。広島大学の大谷先生がその結果を解析して黒い雨については違った結果になるかもしれないと聞いた。データをもっているのは放影研だが、そのデータに今韓国籍を持っている人の居住地は一致するのか。
講師:戦争が終わっていきなり日本人から韓国人にしたのではなくて、正式には5年くらいかかっている。居住地は把握できたのではないか。
会場発言 ABCCが来たのも5年後だった。しかし、黒い雨に関する指摘はもっと前からあった。

<参加者が韓国に関心を持つ理由>
講師質問:皆さんが韓国のことに詳しいのはどうしてなのか? 韓国に住んでおられたとか、韓国籍をもっておられるとか?
会場:孫振斗さんが裁判で最高裁までいって勝訴し、韓国・朝鮮人であっても手帳を受け取れるということが決まったのに、その後すぐ厚生省が衛生局長通達402号を出して、一旦日本を出たら手帳は効力を失うとした。裁判所の判決をこんなこせこせしたやり方で覆した。しかもこの条項が廃止になったのは2003年だった。長い間汚いやり方をしてきた日本に腹が立ち、韓国の被爆者のことをもっと知り、できれば償いをしたいと思った。
会場:自分は6年程韓国にいたが、被爆者は終戦当時日本にいたので親日派だと見なされた。だから言えないで苦しんでいた。被爆者のことも慰安婦のこともそうでだが、申し訳ないという気持ちだ。

<11種の検査項目と放射線との関係―国家補償の代わり>
質問:11の病気は放射線と関係があるのか?
講師:それはわからない。私が55位のとき病院に行ったら、腰が痛くないかと先生に聞かれた。最近ちょっと痛い、と答えたら、先生はレントゲンを撮り、その結果、ちょっとおかしいから健康管理手当の申請書を書いてあげる、と言われた。先生は、国は国家補償ができないから、運動機能障害は放射線の影響が直接あるとは思えないが、これが入っているのは、国家補償の代わりなのだ、堂々と腰が痛い、膝が痛いといっていいのだ、といわれた。

質問:国家補償を認めないということは、他の「戦争被害と同列になるからということか?
講師:というか国は、戦争という不測の国難の時に、国民は等しく受忍せねばならないという、受忍論をいう。被爆者に対しても、受忍せよといった。国民は全部受忍しなければいけない。この頃の若い人は、戦争は自分たちに関わりのないことと思っているようだが。

<慰霊祭で祭られる新しい柱>
質問:毎年8月の原爆犠牲者慰霊式を見ていると、「幾柱」が入ります、と言われている。すごい数だが、あれだけの人が原爆病で亡くなったということか?
講師:原爆に関係する病気ではなくて、手帳を持っている人で亡くなった方の数だ。神奈川でも毎年190人くらい亡くなっている。手帳もったひとでも、慰霊碑(の死者名簿)に入りたくないと言えば入らなくて済む。

質問:手帳を持っている人はどの位いるか?
講師:20万位いる。一番多いときは30数万人いた。毎年9000人~1万人くらい亡くなっている。あと10年経てば殆どいなくなる。

<被ばくの実態とタブー、日韓のこと>
質問:占領下、それぞれの被爆症状を被爆者同志で情報交換したり他人に言ってはならないという規制があったか?
講師:自分は13歳の子供だったから全体的な把握はできていなかった。ただ、21年22年ころ生まれた子供に障害者が割合い確立的に高い、やはり影響があるのかなとは思う。身近にそういう例を見た。ただ、これを人には言いたくない。今だからこそ話すけれど、この話はあまりしたくない。障害者のことは子供に関しては特に言いたくない。

質問:被爆者の会のなかでもそうなのか?
講師:そうだ。噂で、あの人の子供さんはちょっと、というのは聞くが、それが話題になることはない。ふつうの病気ならいいが、また相談電話はかかってくるが、障害や子供の癌のことはあまり言わない。韓国では2世3世の人がはっきりものを言っているが、日本では2世は自分自身からはちょっと、と言う感じだ。原因は親からの遺伝しかないから。知っている人で、原爆投下後比較的早く生まれた人のなかには結構障害のある人がいるようだが、遅く生まれた人ではあまり聞かない。ただ、これは推測だ。調べるのも難しいと思う。韓国では2世に疾病発生率が高く、多すぎるという感じがする。

質問:タブーで隠している人を除いても多い。
講師:多い。
会場:栄養状態とか困窮状態の影響が大きい。
会場:軍需工場で危険物を扱ったりしていたのと被爆が重複していた可能性もある。
講師:直接朝鮮から来た人を目にすることはなかったが、母からは大変だと聞かされていた。

司会:日本が原発を外国に売ろうとしている今、被爆者がこれからも世界で増えて行く可能性がある。被爆者からの証言を聞くと、身につまされて繰り返してはいけないと思う。国境を越えて被爆者同志手をつないでゆきたいと思う。
講師:最初は被団協と繋がってやっていくのがいいと思う。国と国の関係の部分があるから。今回神奈川の2世会員の人とのつながりをとも思ったが、やはりきちんと被団協との関係を作るのがいいと思う。これからはわれわれも2世の人を中心にしようと思っている。
http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/51/47/tocka_jikkoi/folder/1078840/img_1078840_64769661_2?20131119225315

転載元: ロシア・CIS・チェチェン

[転載]11・21(木)秘密保護法に反対する大集会

$
0
0
2013/11/19 2322号                      (転送紹介歓迎)
[JCJふらっしゅ]


世界の平和にかかわる最新ニュース、マスメディアのニュースの検証など、市民とジ
ャーナリストを真実の情報でつなぐメールマガジンです。メディア関係者、ジャーナ
リスト志望学生必見の情報を満載。
◇バックナンバー◇ http://archive.mag2.com/0000102032/index.html
◇購読申込み◇ http://www.mag2.com/m/0000102032.html
◇JCJ加入申込み◇ http://jcj-daily.sakura.ne.jp/postmail/postmail.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
        ☆11・21(木)秘密保護法に反対する大集会☆
         日時:11月21日(木)午後6時30分~
         場所 日比谷公園野外音楽堂
          集会:午後6時30分 主催者、議員、各界のアピール
          国会請願デモ:午後7時30分~ 
…     …     …     …     …     …     … 
       ◇ 11・26 マスコミ9条の会緊急反対集会 ◇
     「ジャーナリストは秘密保護法案と日本版NSCに反対する」
◇日 時:11月26日(火)午後6時開場~午後21時
◇会 場:神田駿河台・明治大学リバティタワー 6階・1063号教室
     (当日、使用教室の変更があっても明大リバティタワーは変わりません)
◇資料代:一般1000円、学生500円
 詳細 http://jcj-daily.seesaa.net/article/380227227.html
…     …     …     …     …     …     … 
<おすすめ>記事情報
高級ワインも特定秘密?──1999年ボン日本大使館事件
(水島朝穂「今週の直言」18日)
 http://www.asaho.com/jpn/bkno/2013/1118.html
*政府はこの資料の存在そのものを公式には認めていない。この2冊だけでなく、内
閣府には、日本核武装の研究に関する関連資料がたくさん眠っているはずである。こ
こへきて「特定秘密保護法」が成立しようとしている。何を秘密にするか、いつ、ど
のように公開するかについても、政府・行政機関の側にあまりに広い裁量が確保され
ている。日本核武装に関する研究も45年が経過しているので、本来ならば関連資料
も含めてすべて出すべきところだが、この法律が成立すれば、公開される可能性はさ
らに低くなるだろう。
*一般に、国家には秘密が存在しうる。ただそれは、情報公開を原則とし、限られた
例外としてのみ認められるべきものである。外交に関しても、交渉相手が存在する以
上、公開が制限される情報というものもある。問題は、秘密を指定する者以外の眼が
働く仕組みが存在するかどうか、いつまでも秘密にすることなく、一定年数の経過と
ともに公開することが、民主主義国家として最低限の前提である。情報公開や公文書
管理体制が不十分なこの国で、このような包括的な秘密保護法制が誕生すれば、秘密
が原則で、公開は例外という本末転倒が常態化しかねない。    (本文より)

*【必読】ぜひ全文をサイトでお読みください。
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2013/1118.html

<おすすめHP>
特定秘密保護法に反対・懸念を表明した団体(順不同)
(秘密保全法に反対する愛知の会 調べ15日)
http://nohimityu.exblog.jp/20934885/

<意見表明>
「特定秘密保護法案」に対する意見表明(日本アーカイブズ学会 15日)
http://www.jsas.info/modules/news/article.php?storyid=148

<おすすめ記事情報>
・【秘密保護法案】 当初の制度設計に問題点があったことを厳しく問われて当然だ
(47トピックス)
 http://www.47news.jp/47topics/e/247684.php
・秘密保護法案:「知る権利」になお残る懸念(毎日新聞19日)
 http://mainichi.jp/select/news/20131119k0000m010147000c2.html
・与党「見せかけ」修正案 「知る権利」依然軽視(東京新聞18日)
 http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2013111802000113.html
・【秘密保護法案】 その先には国家安全保障基本法案が見えている(47トピックス)
 http://www.47news.jp/47topics/e/247683.php
・【社説】特定秘密保護法案<2> 情報は国民のものだ(中日新聞社説19日)
 http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2013111902000097.html
*「迷ったら、公務員は情報を開示することが原則だ」
  米国のオバマ大統領は一期目の就任初日に、こんな趣旨のメモを記した。軍事大
国で、元CIA(米中央情報局)職員スノーデン氏が告発したように、通信情報を広
範に収集している国だ。だが、基本的に情報はオープンという伝統を持つ自由と民主
主義の大国である。情報公開を促す「情報自由法」を持つ。国家機密でも解除は十年
未満に設定され、二十五年たつと「自動解除」原則がある。五十年、七十五年の例外
的なケースもあるが、行政機関がずっと秘密を持ち続けることの方が困難な制度をつ
くっている。
 機密の指定段階でも大統領令で、行政機関の「長」はフリーハンドで行えず、常に
「説明しなさい」という状態に置かれる。疑念があれば、行政内部で異議申し立てが
奨励される。外部の委員会に審査請求できる仕組みもある。    (本文より)

・秘密保護法推進の安倍首相 党内基盤強固で慎重派も声出せず(news-postseven)
http://www.news-postseven.com/archives/20131118_227364.html

<まとめ読みサイト>
曖昧な秘密保護法案、「指定範囲」「期間」「チェック」が焦点(日経BP18日)
http://www.nikkeibp.co.jp/article/matome/20131116/373853/?rt=nocnt

<おすすめ行動拡散サイト>
《緊急大拡散!》特定秘密保護法案
特別委員会のメンバーに「ツワネ原則」を守るように呼びかけよう!
http://project99.jp/?p=6468

…     …     …     …     …     …     … 

         < 決 起 集 会 参 加 要 請 >
         
        11・20 メディア関係者総決起集会

「特定秘密保護法案」の廃案を求めるメディア関係者総決起集会(東京・永田町)
http://www.labornetjp.org/EventItem/1384764666235staff01

「特定秘密保護法案」の廃案を求めるメディア関係者総決起集会(東京・永田町)
   日時:11月20日(水曜日)午後3時~
   場所:砂防会館(永田町)別館3階「穂高」
   (文責):呼び掛け人の1人、鳥越俊太郎

               要 請 文 (案)
                
        私達は現在国会で審議中の「特定秘密保護法案」
             の廃案を強く求めます

 新聞、テレビ、ラジオ、雑誌、インターネット等日本のメディアに関わる仕事に携
わっている私たちは、11月20日午後、東京都内で一堂に会し、今国会に上程され
ている「特定秘密保護法案」の法制化に対する強い危惧の念を共有・確認しました。

 私たちメディアに関わる者は、基本的に国民の知る権利に奉仕し、行政機関や強大
な組織が持つ権力の使われ方を、国民の立場に立って監視する事がジャーナリズムの
一端を担う者に課せられた役割だと認識しています。

 この法案が成立すると、取材・報道の自由が著しく制限され、ひいては国民の知る
権利が大きく侵害され事になりかねません。行政機関の情報公開は世界の大きな潮流
です。秘密の多い国家は息苦しく、非民主的な国家である事、そしてそれが戦争と言
う悲惨な道につながりかねない事を過去の歴史から私たちは学んできました。

 以上の様な理由により、私たちはメディア関係者総決起集会の名に於いてこの法案
に反対し、貴下に於いて然るべき対応をされん事を強く望みます。

                           11月20日

転載元: 「おばあちゃんの鐘馗(しょうき)さま」

沖縄県教育委員会に対する竹富町教育委員会への是正要求の指示を撤回してください

$
0
0
沖縄県教育委員会に対する竹富町教育委員会への是正要求の指示を撤回してください
 
ここから署名が出来ます!↑↑↑
 
 
 竹富町、西表島の仲間が 「文部科学大臣 下村博文様: 公民教科書採択に関して、沖縄県教育委員会に対する
 竹富町教育委員会への是正要求の指示を撤回してください。」というキャンペーンを始めました。
 みなさまも一緒にこのキャンペーンを応援していただけますか?
みなさまのご支援をお願いします!


■「文部科学大臣 下村博文様: 公民教科書採択に関して、沖縄県教育委員会に対する竹富町教育委員会への是正要求の指示を撤回してください。」にご賛同下さい!

 公民教科書の採択に関して、竹富町教育委員会が文科省の不当な介入を受けています。竹富町教育委員会は少しも法に反していませんし、子どもたちにとって正しい選択をしています。どうか竹富町教育委員会を応援してください。
 沖縄県教育委員会への是正要求の指示を撤回してほしいと、文科大臣への署名を始めました。
ぜひ署名をお願いします。お友達、お知り合いにも広めていただけるとうれしいです。どうぞよろしくお願いします。

田中むつみ

[転載]「情報隠し」反対1万人=秘密保護法案「希代の悪法」―撤回求め集会・東京

$
0
0
 
 
イメージ 3
 
 
イメージ 4
 
 
 
イメージ 5
 
 
 
イメージ 1
 
 
 
イメージ 2
 
 
 
イメージ 6
 
 

「情報隠し」反対1万人=秘密保護法案「希代の悪法」―撤回求め集会・東京

時事通信 11月21日(木)21時42分配信
 
集会に参加し、特定秘密保護法案反対を訴える人々=21日午後、東京都千代田区
 
 
 政府・与党が臨時国会で成立を目指す特定秘密保護法案に反対する大規模な集会が21日、東京都内で開かれた。主催者発表で1万人が参加。会場に入り切れない人たちが周辺にあふれ、終了後に合流して、法案撤回を求めるデモ行進を行った。

 東京都千代田区の日比谷公園野外音楽堂で開かれた集会では、主催者の一人の海渡雄一弁護士が「今国会中の成立を絶対阻止し、廃案に追い込んでいこうではありませんか」と呼び掛けた。
 登壇した作家の落合恵子さんは「どこまで民主主義をばかにする政権か。権力はいつだって情報を隠そうとしてきた」と批判。上智大の田島泰彦教授は「(戦前の)治安維持法に勝るとも劣らない希代の悪法。公務員も萎縮し、情報が出にくくなる」と訴えた。民主党や共産党、社民党などの国会議員も参加した。
 集会後、参加者らは国会議事堂などに向かって行進。「何でもかんでも秘密にするな」「自由のない国、絶対反対」などと声を合わせた。 
 
 

特定秘密保護法案に反対 大規模集会
11月21日21時26分 NHK

 
特定秘密保護法案に反対 大規模集会
K10032431711_1311211927_1311211959.mp4
特定秘密保護法案に反対する大規模な集会が21日夜、都内で開かれ、主催者の発表でおよそ1万人が参加しました。
参加者たちは、「政府は、慎重な審議を求める国民の声を聞いて、法案をただちに廃案にすべきだ」などと訴えました。
集会は、市民グループや労働組合などの呼びかけで開かれたもので、会場の日比谷公園の野外音楽堂とその周りには、主催者の発表で合わせておよそ1万人が集まりました。
はじめに、主催者を代表して海渡雄一弁護士が「国民の多くは、慎重な審議を求めているのに、政府はそれを無視して法案を成立させようとしている。諦めずに私たちの思いを国会に届けていこう」とあいさつしました。
参加者の中には、親子連れや仕事帰りのサラリーマンなどもいて、このうち、45歳の団体職員の男性は「ジャーナリストが何も伝えられなくなる世の中になるのがいちばん怖いことです。将来、子どもたちが生きづらい社会にならないよう法案を廃案にしてほしいです」と話していました。
38歳の地方公務員の女性は、「自分の周りでは法案に関心を持っている人が少なくどれだけの人が来ているのか、見にきました。話をよく聴いて帰りたい」と話していました。
集会では最後に「戦争は秘密から始まる。政府は、特定秘密保護法案を直ちに廃案にすべきだ」などとするアピールを採択し、参加者たちは、国会に向けてデモ行進しました。
 
 
 
 

転載元: 宝の山

共謀罪も秘密保全法も盗聴法もいらない  10.26集会

英字新聞ジャパン・タイムズに、星野闘争を紹介する画期的な記事が掲載された!

$
0
0
11月19日発行の英字新聞ジャパン・タイムズに、星野闘争を紹介する画期的な記事が掲載された。
 
 1面の真ん中に、「JUSTICE FOR HOSHINO(星野に正義を)」と星野文昭さんの写真入りで記事の案内が出ており、本文は10面に4分の3程も紙面を割いて掲載されている。
 メイン・タイトルは、「渋谷暴動のリーダー、星野の解放のための妻の数十年の闘い」となっている。サブ・タイトルは、「支持者たちは1971年の事件の隠された全証拠の開示と再審を求めている」である。
 10面を開くと、9・8徳島刑務所デモの写真が大きく写っている。また、徳島刑務所が墨塗りした手紙を暁子さんが持つ写真もある。記事は、星野さんの闘いの紹介から始まる。彼が、沖縄返還協定の批准に反対して200人の労働者・学生と共に渋谷に突入して闘ったこと、75年に逮捕され40年近い獄中闘争を続けていること等が、簡潔に、しかし正確に記されている。星野さんを「殺人罪」にでっち上げるために6人の学生にウソの供述が強制され、その内3人が少年だったことも記述されている。
 次に、暁子さんが星野さんと知り合い、愛情を深めて、結婚に至る過程が描かれている。この部分は、9月に発刊された『愛と革命』を英語で読んでいるようだ。
 徳島刑務所の非人間的な処遇と不当な懲罰も具体的に描かれている。その中で星野さんが絵を描く権利をかちとり、「FumiAkikoカレンダー」が作製されていることも紹介されている。日本の検察官がすべての証拠を法廷に提出しないこと、核心証拠であるKr供述の服装の色が違っているのに、再審が開始されないことを弾劾ししている。
 全国に24の救援会が結成され、400人の結集で徳島刑務所デモを闘ったことを伝え、「彼は必ず解放されます」という暁子さんの言葉で記事は終わる。
 星野闘争勝利の大きな武器ができた。この記事はただちに世界に発信され、「愛国者法違反」で懲役10年とされたリン・スチュアート弁護士や、でっち上げ殺人罪により終身刑とされたムミア・アブ-ジャマルのもとにも届けられた。
 星野闘争を世界に伝え、12・1星野全国集会に総結集しよう。都心デモで、裁判所・検察庁・法務省に怒りを叩きつけ、星野文昭さんを奪還しよう。
 
イメージ 1
 
社会的焦点になっている裁判――9月、星野暁子(左から2人目)と支持者たちが徳島刑務所前で星野文昭の釈放を求めてデモした。1971年に東京であった暴動での警官殺害について、最高裁は上告を棄却し、1987年、星野は四国の徳島刑務所に移送された。(写真は星野再審全国連絡会提供)

渋谷暴動のリーダー、星野の解放のための妻の数十年の闘い

支持者たちは1971年の殺人事件の隠蔽された全証拠の開示と再審を求めている

アンドリュー・ウィリアムズ

2013年11月18日

 長年、国家の不正義と闘いつづけてきたにもかかわらず、星野暁子には失望のかけらもなかった。彼女は59歳で、活発で明るい。彼女の闘いに新たに加わってくる者にも忍耐強く、やさしく接する。確かに忍耐は必要だ。彼女のキャンペーンは、数十年にも及んでいるのだから。夫、文昭は67歳で40年近く獄中にある。彼は無実を訴えつづけていて、支持者たちも政治的な目的で有罪判決が下されたと確信している。

 星野文昭は、1971年11月14日のいわゆる渋谷暴動事件で機動隊員が死亡した件で1975年に逮捕された。11月14日、ラディカルな新左翼グループ、中核派は、ベトナム戦争への沖縄の米軍出撃基地としての使用と沖縄返還に反対して渋谷で大規模な集会を開催した。

 当時星野は、群馬の彼の出身大学の学生運動や三里塚の成田空港反対闘争のベテラン活動家だった。彼は、代々木地域から渋谷に向かう約200人の学生と労働者のグループのリーダーの一人となった。警察機動隊は、彼らの通過を阻止しようとし、乱闘が発生した。その混乱の中で、警察官中村恒雄が殴打され、火に包まれ、翌日死亡した。

 1972年、渋谷事件に関与した6人が逮捕された。うち3人は未成年だった。警察によれば7人目の大坂正明が火炎ビンを投げて中村に火を着けたとされているが、現在まで逮捕されていない。5人の活動家が死亡事件について警察に供述し、彼らの自白が星野の殺人罪有罪判決の唯一の証拠となった。後に彼らはすべて法廷で供述を否定したのだが、日本の司法システムでは警察に対して行った自白と供述書が優先される。

 星野再審全国連絡会の東京にある質素な事務所で、星野暁子は、「文昭がデモのリーダーだったから、警察は何がなんでも責任をとらせようとしている。これが彼らの目的です」と語った。

 一審判決から5年後、1984年の高裁での裁判で彼女は初めて彼に会った。

 当時彼女は30歳、彼は38歳だった。「文昭は獄中9年目でした。私は友人に誘われて傍聴に行ったのです。最初の彼の印象は、非常に孤立した様子でした」

 被告席から星野が述べる考え方に彼女は心を動かされたという。

 「裁判の本人質問の中で、文昭は反戦活動家になった理由をこう話しました。『すべての人間が人間らしく生きられない限り、自分も人間らしく生きることはできない。私は人生をかけてすべての人間が人間らしく生きられる社会をつくるために自らの生を貫きたい』この文昭の生き方にすごく感動しました」

 彼女は裁判を傍聴するために秋田から400キロ離れた東京まで毎月一回通うことになった。そして、星野との文通の開始を希望した。当時、彼は、彼女からの手紙の受け取りを許可されなかったので、弁護士が彼女のメッセージを読むことができるように彼の目の前に掲げた。

 裁判が終了した後は、刑務所での面会を申請するには、彼の婚約者を装う以外にはないと思うようになった。

 「最初に面会したのは東京拘置所でした。私は、期待に胸をふくらまして拘置所に向かいましたが、面会はたったの15分でした。文昭は、私を思いやってくれ、とても優しかった。思った以上にいろんな話をすることができたことに驚きました。文昭と私は互いの話に夢中になっていました」

 そして、月一回の面会と文通が始まった。

 「結婚の申し込みは、私のほうからしたと思います」といって暁子は笑った。

 「しかし、文昭は私の両親の承諾を得ることを望みました」

 そこで暁子は死ぬまで刑務所にいることになっている男との結婚を許すように、長い時間をかけて両親を説得していった。結婚は1986年だった。しかし1987年、上告が棄却され、星野は四国の徳島刑務所に移送された。東京から南に500キロだ。

 「私は、結婚後すぐ秋田から東京に引越しました。文昭を支えるために近くにいたかったからです。私は、東京の刑務所と徳島の刑務所に通ってきたのです。〔刑が確定した時〕私は、文昭が東京へ移送されることを申請しましたが、無視されました。移送先の徳島は、通うのが大変なぐらい遠方でした」

 このカップルは一度も触れ合ったことがない。面会はすべて、看守が同席し、アクリルガラス越しに行われてきた。

 「プライバシーは存在しません。現在の彼の刑務所での級では、月に5通の手紙を書くことができ、3回面会できます。それで私は、徳島に3回面会に行っています」

 2000年に最高裁が星野の再審を棄却した後で、暁子は人工授精で星野の子をつくることを徳島刑務所に申請した。法務省はこの申請を却下した。

 この定期的な旅行のために暁子が払っている費用と苦労に加えて、文昭も被害を受けている。

 「夏の刑務所は本当に暑いのです。徳島では、今年40度を越す日もありました。房には扇風機もエアコンもありません。うちわがあるだけです。冬は、暖房がありません。刑務所の中で文昭はしもやけになっています」

 星野は、ゴキブリを踏んだ足を許可なく洗ったとして20日間懲罰房に入れられ、4ヵ月間独房に監禁されたと訴えている。この件は、アムネスティー・インタナショナルがとりあげ、日本の刑務所の調査を開始した。

 菅谷利和とゴビンダ・プラサード・マイナリは、長期投獄の末ようやく無罪釈放された。この2つのケースもあって、99%の有罪率という日本の司法は、最近非常に評判が悪くなっている。コメンテーターたちは、日本の裁判所が、警察が強要することが多い自白に頼りすぎていると批判している。日本の人権人道担当国連大使、上田秀明は、ジュネーブでの国連拷問禁止委員会で日本の実績を擁護した彼の発言を他の委員から笑われたことに対して「シャラップ」と怒鳴った。この事件の後、最近になって彼は人権人道担当国連大使を辞任した。

 東京にあるテンプル大学の歴史学教授でジャパンタイムズのコラムを書いているジェフ・キングストンは次のようにいっている。「検察官と警察官は、もっともっと説明責任を問われねばなりません。彼らが持っている自由裁量権限は、悪用される危険があまりに大きいのです。この数年、検察、警察の権力乱用の報道が多々ありましたが、それが減少する気配はありません。この自白依存とこうした自白が獲得される方法は、日本の司法システムの公正性を疑わせるものです」

 彼は、取り調べのビデオ撮影がそれを改善するための一つの重要な方法だといっている。

 キングストンは、2009年に導入された裁判員制度は、この改善のためには良い方向であり、裁判員制度は現在まで、かなり成功していると考えている。

 「司法制度は、法律の社会化のために大きく役立つ公衆の参加のために適応しなければなりません。もちろん、司法のプロが今も采配を振るっていますが、彼らは、公衆の感覚や常識に譲歩しなければならなくなっています。しかし、この裁判員制度もまだまだ改善が必要です」

 星野は刑務所の中で絵を描くようになった。いくつかの賞も取り、徐々に多くの時間を絵を描くことに使うことを許可されるようになった。現在では、房の中で好きなときに絵を描いてよいという許可を得ている。水彩画を月一枚仕上げるペースで描き、妻に完成した絵を渡している。絵に入れるサインは自分と妻の名を合わせた「FumiAkiko」だ。彼の支援者たちは、彼が置かれている困難な状況にもかかわらず驚くほど明るいこの水彩画を使ってカレンダーを作っている。

 「文昭は、『獄中にありながら、なぜこんな明るい絵を描けるのか』とよく聞かれます。それはひとつには暁子を癒すために描いているからだと言っています。文明は生きることを本当に大切にしています。彼の絵を見れば、それがわかるでしょう」と星野暁子は語った。

 星野裁判の歴史は非常に長く複雑だが、それが報復であることは明白だ。検察は最初、死刑を狙っていた。しかし、それは12万人の死刑反対の署名によって阻止された。それで、79年の一審20年の判決が83年の控訴審で無期になるという異例の展開になった。

 日本の新左翼の専門家であるハワイ大学のパトリシア・G・スタインホフ教授によれば、「自白している従順な被告に対しては、罪状が重くても短期の刑や執行猶予の確率が高い。しかし、まったく同じ罪状でも、政治的な抗弁をする被告には、釈放はいうまでもなく、法定最高刑を下回る刑を受けるチャンスさえ、事実上存在しない」ということだ。

 それにもかかわらず、星野と彼の支持者たちは、まったく闘いをやめなかった。主要な論点は、法廷でKrと呼ばれている少年被逮捕者が星野が警官を襲った時に着ていたと主張した上着の色だ。Kr供述ではブラウンだと記載されていたが、実際にはライトブルーだった。検察の論拠はKrの警察に対する供述に依存するものだったが、裁判所は、最後には、色が矛盾していることを認めたのだ。

 「最高裁は第一次再審請求の時、Krが服の色を間違えたことを認めました。しかし、それならば、裁判所は、この供述が信頼性がない証拠だと認めるべきなのです」と星野暁子は語った。

 星野弁護団は第二次再審請求の真っ最中だ。弁護団は、この事件の全証拠の開示を要求している(日本では、検察は裁判の証拠の開示を阻むことができる)。提出されていない証拠が多数あるのだ。そうした証拠のひとつに、その日の〔事件よりも〕遅い時間に撮影さられた、紙で包んだままのパイプを持った星野の写真がある。これは、襲撃でバイプが使われなかったことを示唆するものだ。また、ブラウンの上着を着た者が少なくとも2人写っているデモの写真もそうした証拠だ。

 暁子によれば、最近、夫婦の間の手紙の内容が無害であるにもかかわらず、刑務所当局に全部黒塗りされるようになったという。

 「まるで戦時下のようです。私の手紙は5回も黒塗りされました。こんなことをされると、夫婦としての文通はできなくなります……。彼らは、意図的にやっているのです」

 星野再審全国連絡会は、日本全国に支持者がいて、24の事務所がある。最近、この事件の宣伝のために『愛と革命』という本も出版した。9月には、約400人が星野が収容されている刑務所の周辺でデモをした。12月1日には東京高裁の周辺での大きなデモが予定されている。

 こうした法的な困難にもかかわらず、彼の妻と支持者たちは弱気になっている様子はまったくない。

 暁子によると、星野文昭自身、楽観的だという。「文昭は、必ず釈放されると確信しています」

[転載]英字新聞ジャパン・タイムズに、星野闘争を紹介する画期的な記事が掲載された!

$
0
0
11月19日発行の英字新聞ジャパン・タイムズに、星野闘争を紹介する画期的な記事が掲載された。
 
 1面の真ん中に、「JUSTICE FOR HOSHINO(星野に正義を)」と星野文昭さんの写真入りで記事の案内が出ており、本文は10面に4分の3程も紙面を割いて掲載されている。
 メイン・タイトルは、「渋谷暴動のリーダー、星野の解放のための妻の数十年の闘い」となっている。サブ・タイトルは、「支持者たちは1971年の事件の隠された全証拠の開示と再審を求めている」である。
 10面を開くと、9・8徳島刑務所デモの写真が大きく写っている。また、徳島刑務所が墨塗りした手紙を暁子さんが持つ写真もある。記事は、星野さんの闘いの紹介から始まる。彼が、沖縄返還協定の批准に反対して200人の労働者・学生と共に渋谷に突入して闘ったこと、75年に逮捕され40年近い獄中闘争を続けていること等が、簡潔に、しかし正確に記されている。星野さんを「殺人罪」にでっち上げるために6人の学生にウソの供述が強制され、その内3人が少年だったことも記述されている。
 次に、暁子さんが星野さんと知り合い、愛情を深めて、結婚に至る過程が描かれている。この部分は、9月に発刊された『愛と革命』を英語で読んでいるようだ。
 徳島刑務所の非人間的な処遇と不当な懲罰も具体的に描かれている。その中で星野さんが絵を描く権利をかちとり、「FumiAkikoカレンダー」が作製されていることも紹介されている。日本の検察官がすべての証拠を法廷に提出しないこと、核心証拠であるKr供述の服装の色が違っているのに、再審が開始されないことを弾劾ししている。
 全国に24の救援会が結成され、400人の結集で徳島刑務所デモを闘ったことを伝え、「彼は必ず解放されます」という暁子さんの言葉で記事は終わる。
 星野闘争勝利の大きな武器ができた。この記事はただちに世界に発信され、「愛国者法違反」で懲役10年とされたリン・スチュアート弁護士や、でっち上げ殺人罪により終身刑とされたムミア・アブ-ジャマルのもとにも届けられた。
 星野闘争を世界に伝え、12・1星野全国集会に総結集しよう。都心デモで、裁判所・検察庁・法務省に怒りを叩きつけ、星野文昭さんを奪還しよう。
 
イメージ 1
 
社会的焦点になっている裁判――9月、星野暁子(左から2人目)と支持者たちが徳島刑務所前で星野文昭の釈放を求めてデモした。1971年に東京であった暴動での警官殺害について、最高裁は上告を棄却し、1987年、星野は四国の徳島刑務所に移送された。(写真は星野再審全国連絡会提供)

渋谷暴動のリーダー、星野の解放のための妻の数十年の闘い

支持者たちは1971年の殺人事件の隠蔽された全証拠の開示と再審を求めている

アンドリュー・ウィリアムズ

2013年11月18日

 長年、国家の不正義と闘いつづけてきたにもかかわらず、星野暁子には失望のかけらもなかった。彼女は59歳で、活発で明るい。彼女の闘いに新たに加わってくる者にも忍耐強く、やさしく接する。確かに忍耐は必要だ。彼女のキャンペーンは、数十年にも及んでいるのだから。夫、文昭は67歳で40年近く獄中にある。彼は無実を訴えつづけていて、支持者たちも政治的な目的で有罪判決が下されたと確信している。

 星野文昭は、1971年11月14日のいわゆる渋谷暴動事件で機動隊員が死亡した件で1975年に逮捕された。11月14日、ラディカルな新左翼グループ、中核派は、ベトナム戦争への沖縄の米軍出撃基地としての使用と沖縄返還に反対して渋谷で大規模な集会を開催した。

 当時星野は、群馬の彼の出身大学の学生運動や三里塚の成田空港反対闘争のベテラン活動家だった。彼は、代々木地域から渋谷に向かう約200人の学生と労働者のグループのリーダーの一人となった。警察機動隊は、彼らの通過を阻止しようとし、乱闘が発生した。その混乱の中で、警察官中村恒雄が殴打され、火に包まれ、翌日死亡した。

 1972年、渋谷事件に関与した6人が逮捕された。うち3人は未成年だった。警察によれば7人目の大坂正明が火炎ビンを投げて中村に火を着けたとされているが、現在まで逮捕されていない。5人の活動家が死亡事件について警察に供述し、彼らの自白が星野の殺人罪有罪判決の唯一の証拠となった。後に彼らはすべて法廷で供述を否定したのだが、日本の司法システムでは警察に対して行った自白と供述書が優先される。

 星野再審全国連絡会の東京にある質素な事務所で、星野暁子は、「文昭がデモのリーダーだったから、警察は何がなんでも責任をとらせようとしている。これが彼らの目的です」と語った。

 一審判決から5年後、1984年の高裁での裁判で彼女は初めて彼に会った。

 当時彼女は30歳、彼は38歳だった。「文昭は獄中9年目でした。私は友人に誘われて傍聴に行ったのです。最初の彼の印象は、非常に孤立した様子でした」

 被告席から星野が述べる考え方に彼女は心を動かされたという。

 「裁判の本人質問の中で、文昭は反戦活動家になった理由をこう話しました。『すべての人間が人間らしく生きられない限り、自分も人間らしく生きることはできない。私は人生をかけてすべての人間が人間らしく生きられる社会をつくるために自らの生を貫きたい』この文昭の生き方にすごく感動しました」

 彼女は裁判を傍聴するために秋田から400キロ離れた東京まで毎月一回通うことになった。そして、星野との文通の開始を希望した。当時、彼は、彼女からの手紙の受け取りを許可されなかったので、弁護士が彼女のメッセージを読むことができるように彼の目の前に掲げた。

 裁判が終了した後は、刑務所での面会を申請するには、彼の婚約者を装う以外にはないと思うようになった。

 「最初に面会したのは東京拘置所でした。私は、期待に胸をふくらまして拘置所に向かいましたが、面会はたったの15分でした。文昭は、私を思いやってくれ、とても優しかった。思った以上にいろんな話をすることができたことに驚きました。文昭と私は互いの話に夢中になっていました」

 そして、月一回の面会と文通が始まった。

 「結婚の申し込みは、私のほうからしたと思います」といって暁子は笑った。

 「しかし、文昭は私の両親の承諾を得ることを望みました」

 そこで暁子は死ぬまで刑務所にいることになっている男との結婚を許すように、長い時間をかけて両親を説得していった。結婚は1986年だった。しかし1987年、上告が棄却され、星野は四国の徳島刑務所に移送された。東京から南に500キロだ。

 「私は、結婚後すぐ秋田から東京に引越しました。文昭を支えるために近くにいたかったからです。私は、東京の刑務所と徳島の刑務所に通ってきたのです。〔刑が確定した時〕私は、文昭が東京へ移送されることを申請しましたが、無視されました。移送先の徳島は、通うのが大変なぐらい遠方でした」

 このカップルは一度も触れ合ったことがない。面会はすべて、看守が同席し、アクリルガラス越しに行われてきた。

 「プライバシーは存在しません。現在の彼の刑務所での級では、月に5通の手紙を書くことができ、3回面会できます。それで私は、徳島に3回面会に行っています」

 2000年に最高裁が星野の再審を棄却した後で、暁子は人工授精で星野の子をつくることを徳島刑務所に申請した。法務省はこの申請を却下した。

 この定期的な旅行のために暁子が払っている費用と苦労に加えて、文昭も被害を受けている。

 「夏の刑務所は本当に暑いのです。徳島では、今年40度を越す日もありました。房には扇風機もエアコンもありません。うちわがあるだけです。冬は、暖房がありません。刑務所の中で文昭はしもやけになっています」

 星野は、ゴキブリを踏んだ足を許可なく洗ったとして20日間懲罰房に入れられ、4ヵ月間独房に監禁されたと訴えている。この件は、アムネスティー・インタナショナルがとりあげ、日本の刑務所の調査を開始した。

 菅谷利和とゴビンダ・プラサード・マイナリは、長期投獄の末ようやく無罪釈放された。この2つのケースもあって、99%の有罪率という日本の司法は、最近非常に評判が悪くなっている。コメンテーターたちは、日本の裁判所が、警察が強要することが多い自白に頼りすぎていると批判している。日本の人権人道担当国連大使、上田秀明は、ジュネーブでの国連拷問禁止委員会で日本の実績を擁護した彼の発言を他の委員から笑われたことに対して「シャラップ」と怒鳴った。この事件の後、最近になって彼は人権人道担当国連大使を辞任した。

 東京にあるテンプル大学の歴史学教授でジャパンタイムズのコラムを書いているジェフ・キングストンは次のようにいっている。「検察官と警察官は、もっともっと説明責任を問われねばなりません。彼らが持っている自由裁量権限は、悪用される危険があまりに大きいのです。この数年、検察、警察の権力乱用の報道が多々ありましたが、それが減少する気配はありません。この自白依存とこうした自白が獲得される方法は、日本の司法システムの公正性を疑わせるものです」

 彼は、取り調べのビデオ撮影がそれを改善するための一つの重要な方法だといっている。

 キングストンは、2009年に導入された裁判員制度は、この改善のためには良い方向であり、裁判員制度は現在まで、かなり成功していると考えている。

 「司法制度は、法律の社会化のために大きく役立つ公衆の参加のために適応しなければなりません。もちろん、司法のプロが今も采配を振るっていますが、彼らは、公衆の感覚や常識に譲歩しなければならなくなっています。しかし、この裁判員制度もまだまだ改善が必要です」

 星野は刑務所の中で絵を描くようになった。いくつかの賞も取り、徐々に多くの時間を絵を描くことに使うことを許可されるようになった。現在では、房の中で好きなときに絵を描いてよいという許可を得ている。水彩画を月一枚仕上げるペースで描き、妻に完成した絵を渡している。絵に入れるサインは自分と妻の名を合わせた「FumiAkiko」だ。彼の支援者たちは、彼が置かれている困難な状況にもかかわらず驚くほど明るいこの水彩画を使ってカレンダーを作っている。

 「文昭は、『獄中にありながら、なぜこんな明るい絵を描けるのか』とよく聞かれます。それはひとつには暁子を癒すために描いているからだと言っています。文明は生きることを本当に大切にしています。彼の絵を見れば、それがわかるでしょう」と星野暁子は語った。

 星野裁判の歴史は非常に長く複雑だが、それが報復であることは明白だ。検察は最初、死刑を狙っていた。しかし、それは12万人の死刑反対の署名によって阻止された。それで、79年の一審20年の判決が83年の控訴審で無期になるという異例の展開になった。

 日本の新左翼の専門家であるハワイ大学のパトリシア・G・スタインホフ教授によれば、「自白している従順な被告に対しては、罪状が重くても短期の刑や執行猶予の確率が高い。しかし、まったく同じ罪状でも、政治的な抗弁をする被告には、釈放はいうまでもなく、法定最高刑を下回る刑を受けるチャンスさえ、事実上存在しない」ということだ。

 それにもかかわらず、星野と彼の支持者たちは、まったく闘いをやめなかった。主要な論点は、法廷でKrと呼ばれている少年被逮捕者が星野が警官を襲った時に着ていたと主張した上着の色だ。Kr供述ではブラウンだと記載されていたが、実際にはライトブルーだった。検察の論拠はKrの警察に対する供述に依存するものだったが、裁判所は、最後には、色が矛盾していることを認めたのだ。

 「最高裁は第一次再審請求の時、Krが服の色を間違えたことを認めました。しかし、それならば、裁判所は、この供述が信頼性がない証拠だと認めるべきなのです」と星野暁子は語った。

 星野弁護団は第二次再審請求の真っ最中だ。弁護団は、この事件の全証拠の開示を要求している(日本では、検察は裁判の証拠の開示を阻むことができる)。提出されていない証拠が多数あるのだ。そうした証拠のひとつに、その日の〔事件よりも〕遅い時間に撮影さられた、紙で包んだままのパイプを持った星野の写真がある。これは、襲撃でバイプが使われなかったことを示唆するものだ。また、ブラウンの上着を着た者が少なくとも2人写っているデモの写真もそうした証拠だ。

 暁子によれば、最近、夫婦の間の手紙の内容が無害であるにもかかわらず、刑務所当局に全部黒塗りされるようになったという。

 「まるで戦時下のようです。私の手紙は5回も黒塗りされました。こんなことをされると、夫婦としての文通はできなくなります……。彼らは、意図的にやっているのです」

 星野再審全国連絡会は、日本全国に支持者がいて、24の事務所がある。最近、この事件の宣伝のために『愛と革命』という本も出版した。9月には、約400人が星野が収容されている刑務所の周辺でデモをした。12月1日には東京高裁の周辺での大きなデモが予定されている。

 こうした法的な困難にもかかわらず、彼の妻と支持者たちは弱気になっている様子はまったくない。

 暁子によると、星野文昭自身、楽観的だという。「文昭は、必ず釈放されると確信しています」

転載元: たたかうユニオンへ!

[転載]英字新聞ジャパン・タイムズに、星野闘争を紹介する画期的な記事が掲載された!

$
0
0
11月19日発行の英字新聞ジャパン・タイムズに、星野闘争を紹介する画期的な記事が掲載された。
 
 1面の真ん中に、「JUSTICE FOR HOSHINO(星野に正義を)」と星野文昭さんの写真入りで記事の案内が出ており、本文は10面に4分の3程も紙面を割いて掲載されている。
 メイン・タイトルは、「渋谷暴動のリーダー、星野の解放のための妻の数十年の闘い」となっている。サブ・タイトルは、「支持者たちは1971年の事件の隠された全証拠の開示と再審を求めている」である。
 10面を開くと、9・8徳島刑務所デモの写真が大きく写っている。また、徳島刑務所が墨塗りした手紙を暁子さんが持つ写真もある。記事は、星野さんの闘いの紹介から始まる。彼が、沖縄返還協定の批准に反対して200人の労働者・学生と共に渋谷に突入して闘ったこと、75年に逮捕され40年近い獄中闘争を続けていること等が、簡潔に、しかし正確に記されている。星野さんを「殺人罪」にでっち上げるために6人の学生にウソの供述が強制され、その内3人が少年だったことも記述されている。
 次に、暁子さんが星野さんと知り合い、愛情を深めて、結婚に至る過程が描かれている。この部分は、9月に発刊された『愛と革命』を英語で読んでいるようだ。
 徳島刑務所の非人間的な処遇と不当な懲罰も具体的に描かれている。その中で星野さんが絵を描く権利をかちとり、「FumiAkikoカレンダー」が作製されていることも紹介されている。日本の検察官がすべての証拠を法廷に提出しないこと、核心証拠であるKr供述の服装の色が違っているのに、再審が開始されないことを弾劾ししている。
 全国に24の救援会が結成され、400人の結集で徳島刑務所デモを闘ったことを伝え、「彼は必ず解放されます」という暁子さんの言葉で記事は終わる。
 星野闘争勝利の大きな武器ができた。この記事はただちに世界に発信され、「愛国者法違反」で懲役10年とされたリン・スチュアート弁護士や、でっち上げ殺人罪により終身刑とされたムミア・アブ-ジャマルのもとにも届けられた。
 星野闘争を世界に伝え、12・1星野全国集会に総結集しよう。都心デモで、裁判所・検察庁・法務省に怒りを叩きつけ、星野文昭さんを奪還しよう。
 
イメージ 1
 
社会的焦点になっている裁判――9月、星野暁子(左から2人目)と支持者たちが徳島刑務所前で星野文昭の釈放を求めてデモした。1971年に東京であった暴動での警官殺害について、最高裁は上告を棄却し、1987年、星野は四国の徳島刑務所に移送された。(写真は星野再審全国連絡会提供)

渋谷暴動のリーダー、星野の解放のための妻の数十年の闘い

支持者たちは1971年の殺人事件の隠蔽された全証拠の開示と再審を求めている

アンドリュー・ウィリアムズ

2013年11月18日

 長年、国家の不正義と闘いつづけてきたにもかかわらず、星野暁子には失望のかけらもなかった。彼女は59歳で、活発で明るい。彼女の闘いに新たに加わってくる者にも忍耐強く、やさしく接する。確かに忍耐は必要だ。彼女のキャンペーンは、数十年にも及んでいるのだから。夫、文昭は67歳で40年近く獄中にある。彼は無実を訴えつづけていて、支持者たちも政治的な目的で有罪判決が下されたと確信している。

 星野文昭は、1971年11月14日のいわゆる渋谷暴動事件で機動隊員が死亡した件で1975年に逮捕された。11月14日、ラディカルな新左翼グループ、中核派は、ベトナム戦争への沖縄の米軍出撃基地としての使用と沖縄返還に反対して渋谷で大規模な集会を開催した。

 当時星野は、群馬の彼の出身大学の学生運動や三里塚の成田空港反対闘争のベテラン活動家だった。彼は、代々木地域から渋谷に向かう約200人の学生と労働者のグループのリーダーの一人となった。警察機動隊は、彼らの通過を阻止しようとし、乱闘が発生した。その混乱の中で、警察官中村恒雄が殴打され、火に包まれ、翌日死亡した。

 1972年、渋谷事件に関与した6人が逮捕された。うち3人は未成年だった。警察によれば7人目の大坂正明が火炎ビンを投げて中村に火を着けたとされているが、現在まで逮捕されていない。5人の活動家が死亡事件について警察に供述し、彼らの自白が星野の殺人罪有罪判決の唯一の証拠となった。後に彼らはすべて法廷で供述を否定したのだが、日本の司法システムでは警察に対して行った自白と供述書が優先される。

 星野再審全国連絡会の東京にある質素な事務所で、星野暁子は、「文昭がデモのリーダーだったから、警察は何がなんでも責任をとらせようとしている。これが彼らの目的です」と語った。

 一審判決から5年後、1984年の高裁での裁判で彼女は初めて彼に会った。

 当時彼女は30歳、彼は38歳だった。「文昭は獄中9年目でした。私は友人に誘われて傍聴に行ったのです。最初の彼の印象は、非常に孤立した様子でした」

 被告席から星野が述べる考え方に彼女は心を動かされたという。

 「裁判の本人質問の中で、文昭は反戦活動家になった理由をこう話しました。『すべての人間が人間らしく生きられない限り、自分も人間らしく生きることはできない。私は人生をかけてすべての人間が人間らしく生きられる社会をつくるために自らの生を貫きたい』この文昭の生き方にすごく感動しました」

 彼女は裁判を傍聴するために秋田から400キロ離れた東京まで毎月一回通うことになった。そして、星野との文通の開始を希望した。当時、彼は、彼女からの手紙の受け取りを許可されなかったので、弁護士が彼女のメッセージを読むことができるように彼の目の前に掲げた。

 裁判が終了した後は、刑務所での面会を申請するには、彼の婚約者を装う以外にはないと思うようになった。

 「最初に面会したのは東京拘置所でした。私は、期待に胸をふくらまして拘置所に向かいましたが、面会はたったの15分でした。文昭は、私を思いやってくれ、とても優しかった。思った以上にいろんな話をすることができたことに驚きました。文昭と私は互いの話に夢中になっていました」

 そして、月一回の面会と文通が始まった。

 「結婚の申し込みは、私のほうからしたと思います」といって暁子は笑った。

 「しかし、文昭は私の両親の承諾を得ることを望みました」

 そこで暁子は死ぬまで刑務所にいることになっている男との結婚を許すように、長い時間をかけて両親を説得していった。結婚は1986年だった。しかし1987年、上告が棄却され、星野は四国の徳島刑務所に移送された。東京から南に500キロだ。

 「私は、結婚後すぐ秋田から東京に引越しました。文昭を支えるために近くにいたかったからです。私は、東京の刑務所と徳島の刑務所に通ってきたのです。〔刑が確定した時〕私は、文昭が東京へ移送されることを申請しましたが、無視されました。移送先の徳島は、通うのが大変なぐらい遠方でした」

 このカップルは一度も触れ合ったことがない。面会はすべて、看守が同席し、アクリルガラス越しに行われてきた。

 「プライバシーは存在しません。現在の彼の刑務所での級では、月に5通の手紙を書くことができ、3回面会できます。それで私は、徳島に3回面会に行っています」

 2000年に最高裁が星野の再審を棄却した後で、暁子は人工授精で星野の子をつくることを徳島刑務所に申請した。法務省はこの申請を却下した。

 この定期的な旅行のために暁子が払っている費用と苦労に加えて、文昭も被害を受けている。

 「夏の刑務所は本当に暑いのです。徳島では、今年40度を越す日もありました。房には扇風機もエアコンもありません。うちわがあるだけです。冬は、暖房がありません。刑務所の中で文昭はしもやけになっています」

 星野は、ゴキブリを踏んだ足を許可なく洗ったとして20日間懲罰房に入れられ、4ヵ月間独房に監禁されたと訴えている。この件は、アムネスティー・インタナショナルがとりあげ、日本の刑務所の調査を開始した。

 菅谷利和とゴビンダ・プラサード・マイナリは、長期投獄の末ようやく無罪釈放された。この2つのケースもあって、99%の有罪率という日本の司法は、最近非常に評判が悪くなっている。コメンテーターたちは、日本の裁判所が、警察が強要することが多い自白に頼りすぎていると批判している。日本の人権人道担当国連大使、上田秀明は、ジュネーブでの国連拷問禁止委員会で日本の実績を擁護した彼の発言を他の委員から笑われたことに対して「シャラップ」と怒鳴った。この事件の後、最近になって彼は人権人道担当国連大使を辞任した。

 東京にあるテンプル大学の歴史学教授でジャパンタイムズのコラムを書いているジェフ・キングストンは次のようにいっている。「検察官と警察官は、もっともっと説明責任を問われねばなりません。彼らが持っている自由裁量権限は、悪用される危険があまりに大きいのです。この数年、検察、警察の権力乱用の報道が多々ありましたが、それが減少する気配はありません。この自白依存とこうした自白が獲得される方法は、日本の司法システムの公正性を疑わせるものです」

 彼は、取り調べのビデオ撮影がそれを改善するための一つの重要な方法だといっている。

 キングストンは、2009年に導入された裁判員制度は、この改善のためには良い方向であり、裁判員制度は現在まで、かなり成功していると考えている。

 「司法制度は、法律の社会化のために大きく役立つ公衆の参加のために適応しなければなりません。もちろん、司法のプロが今も采配を振るっていますが、彼らは、公衆の感覚や常識に譲歩しなければならなくなっています。しかし、この裁判員制度もまだまだ改善が必要です」

 星野は刑務所の中で絵を描くようになった。いくつかの賞も取り、徐々に多くの時間を絵を描くことに使うことを許可されるようになった。現在では、房の中で好きなときに絵を描いてよいという許可を得ている。水彩画を月一枚仕上げるペースで描き、妻に完成した絵を渡している。絵に入れるサインは自分と妻の名を合わせた「FumiAkiko」だ。彼の支援者たちは、彼が置かれている困難な状況にもかかわらず驚くほど明るいこの水彩画を使ってカレンダーを作っている。

 「文昭は、『獄中にありながら、なぜこんな明るい絵を描けるのか』とよく聞かれます。それはひとつには暁子を癒すために描いているからだと言っています。文明は生きることを本当に大切にしています。彼の絵を見れば、それがわかるでしょう」と星野暁子は語った。

 星野裁判の歴史は非常に長く複雑だが、それが報復であることは明白だ。検察は最初、死刑を狙っていた。しかし、それは12万人の死刑反対の署名によって阻止された。それで、79年の一審20年の判決が83年の控訴審で無期になるという異例の展開になった。

 日本の新左翼の専門家であるハワイ大学のパトリシア・G・スタインホフ教授によれば、「自白している従順な被告に対しては、罪状が重くても短期の刑や執行猶予の確率が高い。しかし、まったく同じ罪状でも、政治的な抗弁をする被告には、釈放はいうまでもなく、法定最高刑を下回る刑を受けるチャンスさえ、事実上存在しない」ということだ。

 それにもかかわらず、星野と彼の支持者たちは、まったく闘いをやめなかった。主要な論点は、法廷でKrと呼ばれている少年被逮捕者が星野が警官を襲った時に着ていたと主張した上着の色だ。Kr供述ではブラウンだと記載されていたが、実際にはライトブルーだった。検察の論拠はKrの警察に対する供述に依存するものだったが、裁判所は、最後には、色が矛盾していることを認めたのだ。

 「最高裁は第一次再審請求の時、Krが服の色を間違えたことを認めました。しかし、それならば、裁判所は、この供述が信頼性がない証拠だと認めるべきなのです」と星野暁子は語った。

 星野弁護団は第二次再審請求の真っ最中だ。弁護団は、この事件の全証拠の開示を要求している(日本では、検察は裁判の証拠の開示を阻むことができる)。提出されていない証拠が多数あるのだ。そうした証拠のひとつに、その日の〔事件よりも〕遅い時間に撮影さられた、紙で包んだままのパイプを持った星野の写真がある。これは、襲撃でバイプが使われなかったことを示唆するものだ。また、ブラウンの上着を着た者が少なくとも2人写っているデモの写真もそうした証拠だ。

 暁子によれば、最近、夫婦の間の手紙の内容が無害であるにもかかわらず、刑務所当局に全部黒塗りされるようになったという。

 「まるで戦時下のようです。私の手紙は5回も黒塗りされました。こんなことをされると、夫婦としての文通はできなくなります……。彼らは、意図的にやっているのです」

 星野再審全国連絡会は、日本全国に支持者がいて、24の事務所がある。最近、この事件の宣伝のために『愛と革命』という本も出版した。9月には、約400人が星野が収容されている刑務所の周辺でデモをした。12月1日には東京高裁の周辺での大きなデモが予定されている。

 こうした法的な困難にもかかわらず、彼の妻と支持者たちは弱気になっている様子はまったくない。

 暁子によると、星野文昭自身、楽観的だという。「文昭は、必ず釈放されると確信しています」

転載元: たたかうユニオンへ!

憲法改悪反対労組声明

$
0
0
   「新たな戦前」に反撃しよう!
                    
 11・3集会で、呼びかけ3労組による「憲法改悪反対労組声明」が提案された。声明を代読した港合同執行委員の木下浩平さんは、「本日よりあらゆる労働組合に分け入って、この声明を広めてほしいと思います。憲法改悪反対の声を、労働者のあらゆる怒りの声と結びつけて闘おうではありませんか」と訴え、会場が拍手で応えた。

憲法改悪反対労組声明

 2013年11月3日
 全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部
 全国金属機械労働組合港合同
 国鉄千葉動力車労働組合
 戦後六十数年にわたって阻んできた改憲と戦争への衝動が安倍政権の手によって解き放たれようとしている。内閣法制局長官をすげ替えて憲法解釈がクーデター的に変更されようとしている。集団的自衛権を容認し、武器輸出三原則を見直して世界中に自衛隊を派兵し、武器を輸出できるようにしようというのだ。特定秘密保護法を制定し、公務員やマスコミを「懲役10年」の恐怖で沈黙せさようというのだ。「新たな戦前」が始まろうとしている。かつて歩んでしまったアジア諸国への侵略戦争と敗戦。その深い反省のなかで制定されたはずの憲法はふみにじられ、新たな戦争への歯止めが外れようとしている。
 自民党が発表した改憲草案は、戦争放棄を定めた9条を「戦争条項」に180度変貌(へんぼう)させてしまっている。「国防軍を保持する」「自衛権の発動は妨げない」「国は、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない」というのだ。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」「基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、……侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」とうたわれた前文や97条は偏狭なナショナリズムに書き替えられ、「天皇は元首」と明記されている。「秩序を害することを目的として結社することは認められない」と、結社・言論・表現の自由、基本的人権、労働基本権が根本的に否定され、すべての権利を停止することができる「国家緊急事態権」も盛り込まれている。
 戦争が至るところで増殖している。沖縄では日米安保体制と米軍基地の再編強化が進んでいる。国家主義や排外主義、領土問題が洪水のように煽(あお)られ、憎悪と恐怖が時代の精神になろうとしている。
 戦後政治を支配した自民党の一貫した立場は、「自主憲法」を制定し、再び独自の軍事大国として登場したいということであった。だから、「憲法改悪反対」は日本の労働運動にとって全ての闘いの土台をなす最も重要な課題であった。
 しかし、総評・社会党の解散と労働運動のとめどない後退が事態を一変させた。「戦争反対」の原点は忘れ去られ、労働運動の中からも改憲を容認する部分が生まれてきたのだ。われわれは歴史から学んできたはずであった。しかし、支配の危機につき動かされ、国益と結びついた戦争への衝動が現実化したとたんに、それまでは戦争に反対してきた者が挙国一致と戦争の支持者に転落していった歴史が再び繰り返されようとしている。
 始まりは国鉄分割・民営化だった。中曽根元首相は、その狙いを「国労をつぶし、総評・社会党をつぶすことを明確に意識してやった」「行革でお座敷をきれいにして、立派な憲法を床の間に安置することが目的だった」と語っている。今こそその流れを断ち切り、労働者の団結した力をとり戻さなければならない。
 外への戦争の野望は内に向けた労働者への戦争とひとつのものだ。政治反動と表裏一体で貧困と格差が蔓延(まんえん)し、雇用、社会保障制度、教育、医療等、生きる権利そのものへの激しい破壊攻撃が加えられている。
 福島では、これまで人類が経験したことのない大規模な放射能汚染が拡大し、打つ手すらない危機が進行しているというのに、この国の政府は、原発マフィアの利益のために、「全てはコントロールされており安全」という虚言で真実を覆い隠し、200万県民を見殺しにしようとしている。
 われわれは歴史の大きな分岐点に立っている。憲法改悪を許してはいけない。戦争への道を阻止しなければいけない。戦争反対の闘いが、労働運動の重要な課題となっている。それは平和を求める労働者の特別の任務だ。その闘いはどんな困難を伴おうとやりとげなければいけない課題だ。なぜなら、労働者の団結した闘いこそが歴史を動かし、社会を変革する力だからだ。労働者の闘いこそが戦争を止める力だ。
 生きることそのものを奪われた怒りの声が積みあがっている。時代への危機感が満ち溢(あふ)れようとしている。われわれは、アジア-世界の民衆と連帯し、力を合わせて憲法改悪反対の闘いに立ち上がる。平和のための特別の任務として戦争につながる全てに反対する。その声を広げるために全力で努力する。未来への希望を自らの手で築きあげるために二度と過ちは繰り返さない。

これでも科学技術か ? 福島原発

$
0
0
これでも科学技術か ? 福島原発
温度、水位、圧力の計測に全面的失敗
槌田敦(元理化学研究所研究員)

  科学者は、科学技術が原子力の安全を守ると約束し、推進してきた
だが、福島原発事故では、科学技術はまったく無能だった。事故直後(11年4月4日)、保安院発表のトレンドデータに基づき、解析する。

1. 温度、水位、圧力の計測に全面的失敗
(1) 停電により自動計測不能
  地震による外部電源喪失と津波による配電盤および非常電源の喪失により温度、圧力、水位など基本データの自動計測ができなくなった
(2) 温度計測は、全機で外部電源回復まで8日間不能
  温度こそ原子炉状態を知る最大の情報なのに、これが得られていない
  1号機は、データ測定空白の間に炉心空焚き。一切の対策は判断不能の状態
(3) 水位と圧力の計測は、1,2号機では7時間、3号機では13時間不能
  運転員が、蓄電池を計器に差し込み、5分ごとに圧力、水位を読み取るまでの初期の重要な時間、データ完全空白。苛酷事故との判断もできず
(4) しかも、原子炉空焚きにより、得られたデータは誤表示
  読み取った原子炉水位は最大5メートルも高表示で、水は十分にあると誤判断原子炉圧力は最大2気圧も低表示。真空よりも低い値を示すなど矛盾
(5) そして、事故翌日12日朝、3号機では、ふたつの水位計は別々の値を表示
  この事実から、3号機原子炉も、この空白13時間の間に空焚きになっていた。
 13日には炉心崩壊への最終段階。隔離時冷却系および高圧注水系どちらも無効
(6)データ不明なら、全面的にECCS高圧注水系または低圧注水系に頼るべきそのためには、直流電源が必要。だが発電所からは蓄電池空輸の依頼なし東電本社は12V蓄電池を小名浜まで大量に陸送したが、発電所には届かず
(7) そのうえ、東電は3号機の実測データを全面的に改ざん
  「実機計測値」という創作データを導入し、各事故調の事故解析を混乱させた
  「3号機で隔離時冷却系と高圧注水系は有効に働いた」というお話し作りのためか
※11月23日(土)槌田ゼミ 徹底解析福島原発事故17「これでもか学技術と言えるか欠陥原子炉」
講師:槌田敦さん  17:30開場 18:00開会  参加費800円

【計測以外の事故対策の失敗】3つ
(8)1.2.3号機ともに原子炉の大口径破断、ECCS低圧注水系の使用不能で破局へ
1号機、非常用復水器の欠陥で給水失敗。制御棒装置の熔融脱落で大口径破断。
2、3号機、低圧注水系の使用不能を承知しながら、逃し弁開で人為的冷却水喪失
(9)海水注入は大失敗
燃料の周りに塩が析出して燃料冷却を阻害。事故処理をさらに困難にした
しかも、格納容器を錆びさせて、原子炉・格納容器を保存できなくした
(10)格納容器(または建屋)を液体窒素で冷却し、汚染水の流出抑制が必要だった
だが提案完全無視。その結果大量の高濃度汚染水を敷地地下水に流出させた
敷地に並べられた汚染水タンク。これから300トンもの汚染水漏れ、地下水へ

【上記10の失敗教訓を無視したまま他原発の運転再開の方針(規制委)】
イ. 特に、(1)電源喪失による自動計測の失敗は重要
 事実が分からなければ、事故対策のしようがない
ロ. 特に、(2)原子炉等の温度計測不能に規制委の反省なし
外部電源・配電盤回復まで8日間、すべての事故機で事故対策は根拠なしだった
ハ. さらに、(4)空焚きになると誤表示する欠陥計器の放置
これらの欠陥に、対策をあきらめた現状。これでも科学技術と言えるのか

【原子炉の安全に科学技術が使えないのなら、原発推進は約束違反】
旧原子炉設計思想(原子炉の冷却徹底、放射能は格納容器に閉じ込め)に戻す必要
格納容器のベント(大気への放出)は原子炉設計思想に反している

【福島事故を反省して、上記10項目に追加すべき対策の必要な3項目】
(11)高圧注水系および隔離時冷却系には熱除去機能がない。そこで現在の格納容器から冷却装置および水素焼却装置を経て、第二格納容器に放射能を移し、閉じ込める
(12)苛酷事故に備えて、非常用復水器(水素逃し弁付)をすべての原発に設置する
(13)加圧水型格納容器での水素爆発を封ずるため充填ガスを空気から窒素に取り替える

【結論】
原子力を科学技術に戻す費用を惜しむならば、運転再開はしてはならない
                            
【ECCS(緊急炉心冷却系)とは何か】
原子炉の冷却水が失われて冷却できなくなる苛酷事故の場合、ECCSを使用する。
●非常用復水器(IC)
原子炉の水蒸気を冷やして水にし、重力で原子炉に流しこむ。1号機の場合、流量は毎時212トンである。2、3号機の場合、非常用復水器は隔離時冷却系に付属していたが、浜岡原発で配管内部で水素爆発事故があり、その対策としてこの非常用復水器機能を取り外してしまった。安全を捨てた東電の犯罪。そしてこれを許した安全委の審査怠慢。
●隔離時冷却系(RCIC)
2、3号機には隔離時冷却系がある。これは通常運転で用いられるものの転用で、準ECCS。原子炉の高い圧力を利用して復水タンクまたは圧力抑制室の水を原子炉に送る。流量は95~97トンと少なく、原子炉配管が健全な場合に有効。この運転により原子炉の熱は格納容器に移動するが、これを除去できない欠点がある
●高圧注水系(HPCI)
配管の小口径破断の場合、高圧が維持されているので高圧注水系や高圧スプレイ系が使える。隔離時冷却系と同様、原子炉の圧力が高いことを利用する。加えて動力用蓄電池が必要。圧力抑制室の水を水源とする。福島第一の場合、1号機では高圧注水系の流量は毎時682トン、2、3号機では965トン注水できる。隔離時冷却系と同じく熱除去の機能なし。
●低圧注水系(LPCI)
配管の破断で冷却水が大量に失われた場合圧力は低く、動力が得られないので、高圧注水系は利用できない。そこで、非常用動力による低圧注水系を利用する。流量は1750~1820トンである。また、炉心スプレイ系(流量1100トン)もある。1号機には存在しない。

【1号機、配管に水素が溜まって機能しなかった非常用復水器】
1号機では、3月11日15時の地震により原子炉配管が破断して冷却水が流出した。しかし、高圧注水系を使用しなかった。その原因は、原子炉の温度など基礎データが停電で表示されず、運転員は冷却水を失う深刻な状況と判断していなかったからと考えられる。
また、もうひとつのECCSである非常用復水器は何度も自動起動したが、やはり原子炉の状況が分からず、運転員はこの作動を危ぶみその度に手動停止した。これにより原子炉には水は一切供給されず、冷却材喪失の苛酷事故になったと考えられる。
なお、非常用復水器不調の原因は一般には弁の開け閉め不能とされているが、高所にある非常用復水器配管に水素が溜まり、水蒸気が非常用復水器に届かなかったからと考えられる。この欠点は、浜岡原発の配管内水素爆発事故で既知であったが無視された。
3月19日、原子炉2気圧。空焚きは収束。だが、格納容器が空焚き。事故は続く。 

【2号機・原子炉の冷却に失敗した欠陥隔離時冷却系】

2号機では、原子炉配管が地震により損傷を受けず健全で、隔離時冷却系は有効に働いた。ところが、地震から3日後の3月14日9時、隔離時冷却系は原子炉への水の供給ができなくなった。その原因は、水源を復水器タンクから圧力抑制室に変えたことによる。圧力抑制室にはこの隔離時冷却系から原子炉の蒸気が流れ込み、溜まっている水は沸騰していたからである。沸騰する水はポンプでは吸引できない。
この隔離時冷却系には非常用復水器の機能が付いていた。しかし、前記浜岡原発の水素爆発事故で、東電はこの冷却機能を削除していた。ここで、非常用復水器機能を削除するのではなく、これに水素逃し弁を付ける対策をしていれば、冷却した水が原子炉に供給されるから、2号機は事故にはならなかった。この非常用復水器機能の削除は東電の決定的な間違いであり、コスト削減だけを目的にしたこの東電のECCS削除は許されない。
14日18時、発電所は、隔離時冷却系に頼るのをあきらめ、消防ポンプにより海水を注入することにして、原子炉の圧力を下げるため原子炉逃し弁を開放した。原子炉の圧力は1時間で70気圧から6気圧に急減圧したので、消防ポンプで海水を注入した。
しかし、すでに空焚きになっている燃料に海水が接することになり、燃料はさらに崩壊し、崩れ落ちた燃料は制御棒置き場に溜まっている海水中に落下し、6時間にわたって多数回の水蒸気爆発を起こした。
15日0時、原子炉から蒸気が供給された格納容器は7気圧となった。その破裂が心配されてベント(大気への放出)がなされた。このベントにより同日8時頃から10時頃にかけて、原子炉と格納容器の圧力は共に大気圧まで低下した。大量の放射能を含む蒸気は120メートル高の排気塔から放出され、南東の風に乗って福島県民を襲うことになる。

【3号機・ECCS低圧注水系を使用せず事故収束に失敗】

3号機では、計器読み取りで計測するまでの計測空白は13時間もかかった。この空白時間直後の12日6時には水位は二重表示で原子炉は空焚きだった。使用されていた隔離時冷却系(11日16時起動)は有効ではなく、冷却水は破断口からすでに流出していた。
12日13時、高圧注水系が自動起動したが、水位はやはり二重表示で空焚き状態だった。運転員には水位のこの二重表示の意味が分からず、苛酷事故であることを見逃していた。
3月13日3時、高圧注水系停止。原子炉圧力はすでに10気圧以下と低く、原子炉の圧力高を利用する高圧注水系は使用不能だった。3号機は津浪被害が少なく、蓄電池などを補充すれば使用可能だった低圧注水系を使用しなかった。
3月13日9時、消火ラインによる給水(非ECCS)を目的に原子炉逃し弁を開く。原子炉は一挙に大気圧に低下して、人為的冷却水喪失事故となった。
3月30日原子炉真空(誤表示)、格納容器大気圧。空焚きを放置して汚染水流出。

【結論】冷却水喪失事故では、ECCSに頼るという原則がすべて果たせなかった。

秘密だニャ音頭PV

Viewing all 4073 articles
Browse latest View live




Latest Images