感想:紅林進著「民主制の下での社会主義的変革」
佐藤和之(佼成学園教職員組合)
本書全体の書評については、既に優れたものが出され、今後も出されると思われる。社会主義論ないし未来社会論をめぐって、社会運動圏やアカデミズムの世界で経験交流や議論がなされるべきと考える評者にとっては、好ましい情況であり、それだけでも本書出版の意義がある。そこで以下、本書全体の問題提起からすれば部分的なものになるが、評者の問題関心に合わせ、ベーシックインカム論、協同組合論、そして民族理論・政策をめぐって、若干の感想と補足的な私見を述べたいと思う。
<ベーシックインカム論について>
ベーシックインカム(BI)論については、「ベーシックインカムと資本主義、社会主義」と題する論考で、考察されている。BIとは、「すべての個人に生存(単なる<生存>ではなく、<人間的な生活>)するに足る所得を、個人単位で、定期的に、他の収入・所得・資産や就労の有無に関係なく、審査なしで、無条件、普遍的に現金給付をする」(51頁)ものである。18世紀、トーマス・ペインが『土地配分の正義』で萌芽的に唱え、米国では1960年代の福祉権運動やフェミニズム運動の中でも主張された。近年、日本でも注目されるのは、経済格差が拡大しワーキングプアが増大する一方、資本主義国における社会保障制度の行き詰まりが背景にある。
紅林論文のユニークな点は、ベーシックインカムを「社会主義」と結びつけるところだろう。したがって、その特徴は「BIの限界」の指摘にまず表れる。すなわち、「。贈匹呂△まで分配論であり、生産の在り方、生産手段の所有問題を問題にしていない」、「⊇召辰董■贈匹里澆任六駛楴腟租生産関係とそれに基づく搾取と収奪、格差と相対的な貧困はなくならない」、「8酋盖詆佞箸いμ未任侶措暗に平等な給付は行われるものの、個々人の必要に応じた実質的に平等な給付(現物給付やサービス給付を含む)は、このBIのみでは行われない」、「い△蕕罎覽詆佞魏瀛召砲茲覽詆佞肪屬換え、社会保障制度の市場経済化を推し進めるという側面も持っている」(56頁)という指摘である。
とはいえ、「社会主義的変革」の観点から、特に完全BIに関しては、運動論として基本的に支持される。なぜなら、「完全BIが給付されるならば、誰も好き好んで資本の下で賃労働に従事する必要はなく」(57頁)なり、資本主義経済における労働力商品化の廃絶につながるからである。要するに、「BIの限界」は理解した上で、当面は生存権保障や社会保障拡充の運動に、さらには労働力商品化廃絶につなげる闘いに、BIは活用できるという論旨だろう。
ところで、このBIに対しては、「反貧困」運動の活動家やワーキングプア当事者から、否定的・批判的意見が多いのが現実である。その第1の理由は、審査なしで一律に一定の現金を給付するBIよりも、公的扶助と社会保険を中心とした社会保障制度の方が、「必要に」応じたきめ細かい給付ができるからだ。また、この社会保障と累進課税を柱とした所得再分配制度は、経済格差の是正にも役立つ。これと裏腹の関係だが、第2の理由は、BI導入により、社会保障制度が過度に代替され崩されるという危惧である。また、財政赤字とも重なって、BIの現金給付により、公共財が市場化される危惧もある。第3の理由は、ワーキングプア当事者の「福祉より雇用を」という思いだろう。換言すれば、ワーキングプアの多くは、「分配よりも、衣食住に足る安定雇用を」求めるという現実がある。
こう考えると、現場の運動家や当事者がBIに反対する理由は、著者の考える「BIの限界」の指摘と、ほとんど重なる。理由の第1は「BIの限界」の、第2はぁ第3は´△砲かわる問題だ。但し、著者の場合は、最終的にはBIを支持している。この両者の違いは、BIが労働力商品化の廃絶につながるという論理の有無に尽きるだろう。別言すれば、利潤追求型の資本主義企業への労働力供給が阻害され、協同組合やNPO・NGOの非営利活動、ボランティア活動などが活発化するという論理である。だが、この論理自体も疑わしい。著者自身も「大工場や大規模な運輸、流通などの部門では、そこで働こうと思えば、それら生産手段を所有している大資本の下で働かざるを得ない」(59頁)と認めるのだが、実際にはそれだけではない。こうした大規模企業に限らず、生産性の高い企業が、相対的に高い賃金を保障すれば、労働力はそちらへ流れるに違いない。ベーシックな収入以上を求める労働者は、当然にも存在するからだ。
それゆえ、現場の運動家や当事者がBIに反対する理由を是認した上で、著者のそれ自体疑わしい「社会主義的変革」の論理を対置したところで、ほとんど説得力はないだろう。したがって、もっと丁寧な議論が不可欠ではないだろうか。そもそも、BI導入の推進主体が明記されていないので、著者にとっては社会運動圏や中心的当事者を措定する必要はないのかもしれない。その辺は不明だが、評者は必要だと考えるので、これらの諸問題を簡単に再考してみたい。
現場の運動家や当事者がBIに反対する第1の理由は、社会保障制度の方が優れているというものだった。しかし、社会保障制度は、2割弱の生活保護捕捉率が象徴するように、決して十全には機能していない。その要因は、「財政赤字」を口実にした現場への締め付け、行政担当者の差別的対応、複雑な手続きなどにある。したがってBIを主張する際、「財政赤字」に対しては、財源を具体的に示すことが重要だ。ちなみに、著者は小沢修二氏の比例課税案を否定するが、BIの税収としては累進課税に固執する必要はない。差別的対応や複雑な手続きに関しては、審査なしで一律に一定の現金を給付するBIにより、かなりの程度が解決する。生存権や平等権の思想を普及・徹底させるのは当然である。加えて、自然物である土地を私有する者の利益は、それ以外の者にも還元すべきという、BIが提唱された初期の思想にも注目したい。
第2の理由は、BI導入により、社会保障制度が崩壊するというものだった。しかし、社会保障制度のうち、BIで代替できる部分と出来ない部分とを区別し、後者については残せばよい。最初から、左派系のBI論者はそう主張している。これで、「BIより社会保障制度が優れている」といった、二者択一的な主張は退けることができるだろう。第3の理由は、当事者の「福祉より雇用を」という思いだった。しかし、雇用確保のためにも、BIが導入されれば、余裕を持って闘える。つまり、BI要求運動は、労働組合運動と同時並行的に推進すべきなのだ。また、企業の「労働需要は派生需要」であるから、雇用にとっては景気対策も重要である。安定収入であるBIは、有効需要に寄与する側面があり、景気が維持・拡大することで、雇用確保につながることも期待できる。
<協同組合論について>
本書においては、前節で検討した論考を含め、協同組合をめぐる議論が少なくない。例えば、「非営利・協同セクターの形成・拡大」として、「株式会社に代わって協同組合や非営利団体(NPO)を、社会的企業(利潤よりも社会的使命を第一とする企業、株式会社の形態を採る場合もある)を、そしてそれらによる経済セクターを作り出してゆくこと」(46頁)が提起される。関連して、「フェアトレード、地域通貨、マイクロクレジット等々、様々な運動や相互扶助組織、セクターを含む多様な概念」(49頁)として「連帯経済」が解説される。また、社会主義社会の生産主体として、国有・国営企業、労働者自主管理企業と並び、位置付けられているのが労働者協同組合だ。要するに、税制や経済政策あるいは国有化を通じた、「大企業・大資本の民主的・社会主義的統制」と同時に、「非営利・協同セクターの形成・拡大」といった戦略を、著者は提起しているのである。
但し、協同組合論でも著者は慎重で、モンドラゴン・グループの「ファゴール家電」倒産に示されるような、協同組合の維持・運営の困難性についても指摘している。だが、客観的な指摘に終始せず、困難に陥る原因を考察する必要があるのではないか。例えば、消費者協同組合においては、恒常的に労働問題が発生している。この組織は、消費者の利害を基準にして、生産・流通・消費を下から規制することを目的とするから、雇用労働者の生産過程への関心は希薄だからだ。これに対し、労働者協同組合の場合、雇用確保や労働条件は重視されるから、労働問題の発生は比較的少ない。それでも市場競争を背景に、組織の事業を維持するため、労働条件の切下げ圧力が働き、内部対立を引き起こすことがある。それゆえ、こうした問題を克服する一つの鍵は、所謂「連帯市場」の形成・拡大なのだが、本書では触れられていない。別言すれば、資本の利潤追求に対抗する問題意識はあっても、市場経済の規制に関して論じた部分はほとんどない。
また、「労働組合の経営参加」(45頁)をめぐる記述は混乱しているが、主要には労使協議制を想定していると思われる。これは理論上、労働組合による団体交渉やQC運動とは異なるのだが、労使対等の立場で交渉し、経営内容や賃金分配を決定し、また労働者が生産の工夫をすること自体は悪いものではない。別の見方をすれば、一般の民間株式会社でも、社会的貢献度が高く、労働条件や労使関係が良好で、質の高い財・サービスを提供する企業が、在り得ることを示唆している。但し日本では多くの場合、企業ごとに経営内容や賃金分配が決定され、製品管理もなされるから、企業別に労使協議制度や労組の交渉やQCサークルが組織される。問題はこうした構造を基礎に、労働者が企業防衛意識をもち、経営者の違法行為や「合理化」に手を貸し、結果的に生産の質をも劣化させることだ。そこで、打開策として産業別組合化などが提起されるのだが、いずれにせよ、労使協議制や良好な労使関係を築くこと自体が悪い訳ではないのである。
さらに本書では、スウェーデンの「労働者基金制」、日本の「生産管理闘争」、アルゼンチンの「回復工場」が紹介されるが、コーポラティズムの一形態としての、サンディカリズムに関する言及はない。サンディカリズムとは、労働組合を基礎に日常闘争を闘うことで、社会的ゼネストを準備・実行し、未来社会では労働組合が生産・分配の主体となるという思想と運動である。ここで、コーポラティズムやサンディカリズムについて論じる余裕はないが、この短い規定だけでも、いくつかの問題提起を示唆している。そこで議論が少し飛躍するが、本書の内容と関係するものを、補足的に指摘だけしておく。
まず、協同組合にせよ労働組合にせよ、革命の以前と以後とでは、その性格や役割が異なってくるのではないか、という問題である。もっとも労働組合に関しては、本書の社会主義社会論には出てこないから、革命後は解体・再編すべきというのが、著者の考えなのかも知れない。だとしても、「社会主義的変革」の途上で、推進主体の構成と、その性格や役割が変わるのか否かを含めて、議論を深める必要があると思われる。次に、協同組合などの成長・発展のみに期待するのか、そこに左翼政党やインテリの指導が必要なのか、といった問題である。これは、アナルコ・サンディカリストといわれた大杉栄と、日本共産党の創立に参加し後に労農派を形成した山川均との論争、すなわち所謂「アナ・ボル論争」にも通じる、旧くて新しい論争点の一つでもある。しかし本書では、「社会主義政党の役割」(41頁)と題する節もあるが、この問題が考察されることはない。
さらに、生産主体への資源配分と消費者への生産物分配を、如何に実現するかという難問がある。サンディカリズムの場合、労働組合が生産・分配の主体となることを主張するが、労組間の関係などは必ずしも明らかではない。本書においては、特に「市場と計画―下からの分権的協議経済的計画化」(32頁)と題する節などで、社会主義経済論が提起されている。但し、分配論については、村岡到氏の「<生活カード制>の意義と懸念」(77頁)という形で検討されており、著者が自説を積極的に展開しているのではない。また、BIは社会主義社会の分配論としても扱われるが、BI論に関する評者の意見は先述した。
<民族理論・政策について>
民族理論・民族政策については、「マルクス主義と民族理論、民族政策」と題する論考で、サーベイされている。ここでの著者の問題意識は、偏狭な民族主義やナショナリズム、「社会主義国」を含む国家間・民族間の対立・紛争、国内外の民族抑圧や差別、植民地支配と民族独立闘争などだろう。そして問題解決の方策として、オーストロ・マルクス主義が提唱した「文化的自治」、トロツキーが提唱した「ヨーロッパ合衆国」、独仏国境地帯における「欧州石炭鉄鋼共同体」という形での資源共同管理に注目している。
さて、紙幅も尽きてきたので、最も強く感じたことだけ記したい。本書では、「文化的自治」を「文化多元主義」「多文化共生」にも通じる考え方であり、再評価されるべきだと主張する。だが、ソ連ではバウアー型の「文化的自治」、つまり混住地域限定の属人的民族自治が、一定程度は実現していた。ソ連の民族政策は時期や地域により変遷してきたが、現地の民族語学校は存在したし、ロシア語学校でも民族語が履修できた。領域をもたない少数民族に対しても、民族語とロシア語のバイリンガル化という基本方針は変わらない。また、学校外教育まで含めれば、民族文化を学ぶ機会もあった。同時に、構成共和国は「主権国家」として、民族を基準に編成された。ところが、公的な場ではロシア語が優勢であり、行政の背後で強大な権力をもつ共産党は、良き「ソ連人」を優遇したのが現実だ。ペレストロイカ期以降、他の要因も絡んで、民族紛争が続発したのは周知の通りである。
これに対し、レンナー型の「文化的自治」は、一切の「領域的自治」つまり属地的民族自治を退ける。そこで日本を例にとると、「多文化共生」教育がなされ、民族学校も一応は存在している。だが、それは「多民族共生」を意味しない。だから、在日外国人には日本人と対等な権利は認められず、選挙権も無ければ、警察官にもなれない。民族差別は同化主義だけでなく、「文化多元主義」とも併存し得るのであって、「文化的自治」は民族問題を解決する万能薬ではない。それは、政治・経済・文化の各領域において、国内外での支配・抑圧、制度的差別と実質的差別などの観点から、検証すれば浮き彫りになる。
加えて、左翼固有の問題群がある。すなわち、「被抑圧民族の分離・独立、および階級としての結合・連帯」、「国家の死滅」、「共産主義的人間」をめぐる問題などである。「従属論・新従属論」(138頁)に関しては、新自由主義とグローバリズムの時代における、新たな帝国主義論あるいは現代<帝国>論の解明の中で、活かしていくべきだろう。どれも困難な課題であるが、本書の問題提起を基礎に、今後も考えていきたい。
以上、本書をめぐって、部分的ではあるが、評者の思うところを述べてきた。評者の友人でもある著者は、勤勉な市民活動家であり社会主義者である。それだけに本書は、類書も少なく、貴重で稀有な存在だろう。アカデミズムの世界でもなく、ジャーナリズムの立場からでもなく、まさに運動の中から生まれたと言ってよい。社会運動圏を中心に、幅広く読まれ、深く議論され、実践的に活用されることを期待したい。
転載元: ロシア・CIS・チェチェン